Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

死刑絶対肯定論

「死刑絶対肯定論」美達大和。

おりしも、国会議員を落選した死刑反対で知られる法務大臣(議員を落選してなお大臣でいられるケースは空前絶後と思うが)が、自ら死刑を見学(物見遊山だとか、パホーマンスではあるまいと信じたい)して物議を醸している。
この刺激的なタイトルの本は、そういう意味で部数減に悩む出版社が週間誌的に出した新書、と思われそうだ。
しかし、さにあらず。そういう事情では、なかなか本書を出すことは難しいのである。
なぜなら、著者は、二人の殺人をした罪によって服役中の正真正銘「終身刑」囚人であるからだ。
つまり、本書は獄中執筆によるのであり、ヒマなゴーストライターが短期間に書き下ろせる内容ではないのである。

さて、本書における著者の立場は明快である。タイトル通り「死刑存置派」なのである。
その理由も明快である。「ほとんどの死刑囚は反省しない」のであり、また「社会に戻れば、またヤマを踏むと考える」からである。
10年15年の長期刑を「ションベン刑」であり、「思ったより短かった、あっという間だ」と語り、あげくに「刑務所の居心地は悪くなかった」と述べて出所していくからである。
ちなみに、出所者が再度刑務所に戻ってくる率は50%以上あり、仮出所でも33%を超える。
人権に配慮して、囚人の待遇の改善が図られた結果、所内には「笑いが絶えない」のであり、これで反省なんかするわけがない、という著者の指摘は、現実を知る人間でしか言えないことであろう。

ほとんどの囚人は、自分が無期あるいは死刑判決を受けたことを「運が悪かった」「最悪の結果」だと考えているが、それは「自分が」であって、被害者のことを考えているわけではない、というのである。
これが真実なのである。
ただし、少数ではあるが、死刑判決を受けたのち、真摯に反省する者が現れる。
自分が人を殺す(二人目以降は、それすら慣れてくるのだそうであるが)ことは考えても、自分が殺されると考えたことはないのが殺人者なのだそうだ。
しかし、死刑判決という事実の前に、その考えを改めざるを得なくなるのである。
著者の主張は、いずれ死刑になるのだから、反省しようがなかろうが関係ない、というものではない。
もしも短期間であろうと、獄中であろうと、そこで真摯に反省して充実した内的生活を送れるのであれば、死刑判決は「人間的」さらにいえば「人道的」ではないか、という。

一部の議員による「仮釈放なしの終身刑創設」の動きには、現場の声として反対をする。
日本の刑務所は、刑務官1名で50名の囚人を管理しなければならない。欧米では考えられない少なさなのだそうだ。
それでも刑務所内の治安が維持できるのは、無事故で過ごせば仮釈放という恩典があるからである。
もしも、仮釈放がなければ、いったい泣く子も黙る凶悪犯をどうやって統御するというのか。これら「人権派」は、あまりにも獄内の現実を知らぬ、という。

著者の主張は、服役態度によって恩典がある長期刑であり、これは欧米の終身刑に近いもののようだ。
日本には誤解があるのだが、欧米の終身刑は、決して仮釈放がないわけではないのである。

とにかく一読、おどろくことばかりである。
こう言ってはなんだが、一般人が考える世界とは、隔絶の感がある。
著者が言う「あなたが仮に、裁判員になって、これは死刑に値すると思えば、断然死刑を主張すべし」という意見は、傾聴に値する。
そもそも裁判員制度自体が、判例主義に偏り、あまりに市民の「相場」とかけ離れた判決がされるのは問題があるので始まった制度である。
裁判官は法律のプロであり、法律の解釈は裁判官の助言があるので、問題にしなくていい。
裁判官は、市民感情のプロではなく、善良な市民において、いかなる殺し方をしても「一人」だ「二人」だという「永山基準」では判断しきれないから、裁判員が導入されたのである。
「お上のなさるお裁きに従えばいいんだ、裁判官制度反対」という話ではない。
そもそも、試験にうかっただけのおっさんが、人の生死にかかわる事案にすべて正答できるはずもない。それは、職業というものを神聖視しすぎた見解だ。
判断するのは「社会」であって、裁判官が社会の常識から離れすぎていれば、それを修正するのは社会の一員として義務の範疇であろうと思う。

評価は☆☆。めったに読めない、すごい本である。

ちなみに、私は死刑存置派であるが、それ以上に、呉智英氏が主張した「死刑廃止なら仇討ちを復活すべき」というラディカルな主張を容認せざるを得ないと考えている。
私的制裁が禁じられているのは、その制裁を社会が代わりに行ってくれるという社会契約が存在するからに他ならない。
もしも、社会が契約違反をするならば、個人に契約破棄する権利を留保しなければ、権利と義務のバランスがとれないと考える。
私が、もしも家族、友人などかけがえのない人が殺人の被害者になった場合(想像したくもないが)私は全力を上げて復讐する。生かしちゃおかぬ。
それをガマンするのは、それなりのルールを社会が準備してくれると期待するからだ。

なお、著者は、死刑回避の事情として、特に「冤罪の可能性」を上げている。
私も、これはまったく同意見である。殺人犯が野に放たれる可能性があろうとも、絶対に冤罪の人を死刑にしてはならない。
ただ、あまりに個々の事案を一般化して「人は誰でも間違いの可能性があるから」死刑反対というのは、水を飲みすぎれば人は死ぬから飲料水反対というのに等しい。
実際には、もちろん現行犯もあり、衆人環視の殺人だって、物証ごろごろ自供ピッタリ、疑う余地なしの殺人だって数多あるのだ。
いずれの世界でもそうだが、原理主義は危ういものであり、事態をひとつひとつ見て判断を下すよりほか、我々にはないのである。