Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

愛しき人類

「愛しき人類」フィリップ・キュルバル。サンリオSF絶版シリーズ(笑)

冒頭、ベルガセンという名前の諜報部員が、スイス経由で山越えを行い、マルコムと呼ばれる欧州連合に潜入する。
本書が書かれたのが1976年、マーストリヒト条約の調印が1992年だから、SF作家の想像力は素晴らしいものである。
で、このマルコムだが、実は鎖国政策をとっている。
物語中でその経緯の説明があるのだが、欧州区域内ですべての需要を満たせるだけの生産があることが判明した時点で、欧州連合=マルコムは、いわゆるグローバル経済への参加をやめた、ということである。
この政府提案に対して、国民はこぞって賛成した。
しばらくは、平穏な日々が続いたのである。移民問題もないし、大きな格差問題もなかった。
ところが、ある企業が現れて、この様相は徐々に変化する。その企業が発売したのは「時間流減速機」だったのだ。
つまり、自室の中にこの「時間流減速機」を取り付けて、どっぷりと趣味にはまる(骨董鑑賞やら音楽鑑賞、あるいは映画など)
そして、自室の外に出ると、なんと1日すぎたと思ったものが、わずか30分ほどでしかない。
つまり、出勤前のあわただしい時間のはずが、実はゆっくりと好きな映画鑑賞をして、それから出かければ良いことになったわけである。
となると、これは人生が何倍も増えたのに等しい。逆にいえば、自室の外に出た時は、急速に年をとっていると言える。
なので、人々は、勤務先から戻ってくると、ただちに自室に閉じこもるようになってきたのである。
マルコムの社会は、治安もよく、生産性も高く、人々は最小限の勤労で最大限の娯楽を享受する。社会全体が、極度の閉鎖主義的なユートピアなのである。
そして、その異分子は、「再教育」されてしまう。
この「夢をみて過ごす」人生に異議申し立てをするものは、社会に不適格とされて、キャンプに放り込まれ「矯正」されてしまうのである。

この社会は、やがて破たんを来す運命にある。
時間流減速機についで、空間を拡張する機械まで現れた(6畳間が、広大なビーチになってしまう)のだが、これらの急速な普及は、必然的にエネルギーの大幅な消費をもたらす。
この世界の指導者達は、それを知りながら、国民に目を背けさせるようにしているのである。
潜入した諜報員ベルガセンと、彼にSOSを出した宗教団体がその社会をかき乱そうとするのだが。。。

フランスSFって、こういうもんなんだろうねえ。
アメリカと違って、欧州は晦渋したがる向きがあると思われる。もちろん、イギリスまで含めて、である。
新大陸アメリカには伝統も文化もない(言い過ぎか?)かわりに、フロンティア精神というやつがあるわけだ。とにかく困難な状況に陥った主人公は、少なくともあがく。
ところが、欧米SFの主人公は、ともすればそのまま内的世界に沈潜してしまう。結果、筋書きらしい盛り上がりに欠けたまま、なんとなく世界はこんなもんだ、と言ってラスト。
これは、クラシック音楽のロマン派崩壊以後と同じである。苦悩を乗り越えて成長する、などと言っていたのが、伝統の重みに押しつぶされ、新しい試みは小難しいばかりで過去の巨匠にてんで歯が立たない。
となると、あとは「なるようになれ、世界はそんなものでした、ちゃんちゃん」しかなくなるのである。
結果、シェーンベルクだのバルトークだの、クライマックスもフィナーレもわからん音楽が。。。抽象的な美と言えるけど、具象をすべて捨て去るというのは極端ってもんでしょ。
この小説は、そういう意味では、なんとかしようと登場人物達がそれぞれに苦闘する(やり方は違うけど)が面白い。
アメリカの小説じゃないから、むき出しの脱出願望とか進歩教にはまってはいないのだが、でも眠ったような過去に向き合うだけの世界もイヤだ、という叫びがある。
これって、欧州の根源的な苦悩なのかもしれない。

評価は☆。ま、それなりに面白いというか。少なくとも、ちゃんと小説になっている(苦笑)

ところで、成熟してしまった社会というのは同じ傾向を示すものかもしれないが、最近の日本も妙に内向きである。
江戸礼賛をしたり、大まじめにグローバリズム反対を叫び(それじゃあ鎖国しかないのでは?)内向きの幸福を語る人が増えているように思う。
困ったことに、知識人にそういう人が多いのだ。それだけ、普通に考えて、もう過去の延長線上における「明るい未来」はない、ということなんだろうな。

私としては、そんなものじゃないだろうと思うこともある。落ちてみなけりゃわからないではないか。
会社の近所も自宅の近所も、今や外国人だらけだ。そこで気づくのは、支那人でも良い奴もいれば不愉快な奴もいるし、日本人でもそれは同様だということにすぎない。
私は、相手が支那人だから不愉快なものでも過去の歴史を鑑みて遠慮しよう、などという根性はもっていない。そういう意味では、まったく日本人的ではない。
支那人にそう言ったら、かれはふんふんと頷き、こう言った。
「自分がやったことじゃないことでも、反省するのは、日本人だけよ。でも、歴史の認識はそういう意味じゃないよ」
私は「いいや、違う。それはレトリックだ」
「レトリックなによ?」
「黒いカラスを白という、ウマをみてあれは鹿だということだよ。反省しなくていい、でも歴史認識しなさいは、あり得ない。やっぱりウマはウマ、鹿は鹿だよ」
支那人にそう言ったら、彼は苦笑いした。そうかもしれないね、と。

わけのわからんことで後ろ向きになるより、言いたいことは言ったほうがいいと思うんだよね。
次は、スッキリと抜けた小説を読もうかな。