Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

城をひとつ

「城をひとつ」伊東潤

史実でも後北条氏(小田原の北条早雲が初代)に仕えたとされる大藤一族を描いた物語。
連作短編集で大藤氏の開祖、信基から景長、秀信、政信、直信の五代をそれぞれ一編にして描いている。

初代の信基は、昔、北条早雲から「何かあったら当家に来い」と言われていた人物で、ある日ふらりと二代氏綱のもとに現れる。
しかし、この素浪人に北条家の家臣が好意を抱くはずもなく、氏綱は父が推薦した人物を粗略に扱えないので悩む。
すると、信基は「城をひとつ、お取りすればよろしいか?」と聞くのである。
家臣は馬鹿なことを言うなと思うのだが、信基は実は焼失したとされる魏の曹操の兵書「孟徳新書」を暗記して体得した人物である。
さっそく敵の城に潜り込み、うまく城主の話し相手になりおおせて、城を内部から腐らせてゆくのだ。
本書のいすれも、この「入込」と言われる間諜の策が大藤一族の腕の見せどころとなっている。
まあ、ころりと騙される敵のほうも可愛いとしか言いようがないが、大藤氏の腕前が見事である。

評価は☆。
大藤氏の開祖の信基は、軍記物で北条氏の軍師、根来石国斎のモデルになった人物であったらしい。
もちろん、孟徳新書はまっかなでっち上げなのだが、まあ、こういうのは講談だと思えばよいのである。
面白ければ良いので、それ自体は「らしく」あればいいのだ。特に問題はないだろう。
ただ、読んでいて思ったのだが、これらの短編がどれもしっかり書いたら、それなりの中編から長編にもできる規模の話なのである。
そういう意味では、少々もったいないと感じた。

時代小説も、司馬遼太郎のように「いかにも見てきたように」書くやり方もあるが、本書のように講談として描くのも面白い。
早い話が、小説などというのは、どこまでも「嘘」なのであるから、「見てきたような嘘」であるか「いかにもな嘘」であるか、そのどちらで優劣がつくということはないと思う。
この「嘘を楽しむ」というのが、我々人類にのみ許された特徴なんではないかと思う。
最近の研究では、カラスも猿も道具を使うし、なかには火のついた枝を使う猿(つまり火を使う)もいるらしい。
となれば、万物の霊長たる我々にしかできないことはなんだろう?となって、やっぱり嘘を楽しむことではないかと思うわけだ。
考えてみれば文芸によらず、芝居も映画も「嘘」なのである。大胆な発言をすると「宗教」も嘘なのであり、当然に宗教の延長線上にある天皇制だって嘘、、、おっといけね。
まあ、しかし、虚構を思いっきりホントのことのように扱う、というのは、これはもう「楽しむ」のがオトナの嗜みではないだろうか。
今や知識量も計算力もAIに勝てもしないんだから、いよいよ人類は「嘘」を楽しむべきだろう、というのが私の考えであります。
まちろん、こんな文章は、口からでまかせのお筆先に決まってるわけなんですがね(笑)