Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

九十三歳の関ヶ原

「九十三歳の関が原」近衛龍春。副題「弓大将 大島光義」

主人公の大島光義は実在の武将であるが、私はこの人のことをまったく知らなかった。
かなりの戦国時代通であっても、知らない人が多いのではないだろうか。
まさに、著者の近衛氏が発掘した人物であると言える。

物語は冒頭、美濃斎藤氏の家老で長井道利の与力となっている大島光義が、得意の弓で押し寄せる敵を排除する場面から始まる。
この場面で、すでに大島の年齢は五十すぎ、当時ならば隠居の歳である。
弓は遠隔兵器であり、源平の時代の昔から、戦はまず弓合戦、つづいて投石が行われ、敵を崩してから槍隊が突撃するというのが常法である。
近代の軍隊とは違って、戦国時代の軍は半農の寄せ集めなのである。誰だって、命は惜しい。
旗色が悪いとなれば、つい浮足立つ。まずくなったら逃げようと、誰でも考えるからである。
逃げ遅れたら死を意味するので、いわば巨大な烏合の衆であり、付和雷同の集まりである。
よって、戦の冒頭に行われる弓合戦はたいへん重要であり、ここで劣ると思えば、大軍でも崩れやすくなるのである。
美濃はそのうち斎藤家の家督相続争いによって没落、織田家の支配するところとなる。
大島家は、弓を腕を買われて織田家に仕えることになる。
時代は弓から鉄砲に移り変わるときで、大島は鉄砲派の筆頭、明智光秀に馬鹿にされたりするが、
「弓は連射がきき、音もたてない。弓には鉄砲とは違う良さがある」
と頑固に弓にこだわり続ける。
やがて、その明智光秀が裏切りのあとで討たれてなくなり、大島は織田信孝の配下になる。その信孝は秀吉によって自刃に追い込まれる。
大島は、弓大将仲間の太田牛一の伝手により、今度は秀吉の配下となった。
秀吉の養子である関白秀次につけられ、弓の師範となる。
このとき、関白就任の儀式で、京都の八坂にある五重塔の最上階の窓に連続して十本の矢を射込んでみせ、周囲の賞賛を浴びた。
このときの大島の年齢は、なんと八十四歳である。
周囲が「年寄りの冷水じゃ、やめておきなされ」と忠告したのも無理は無いのだ。あの五重塔の最上階まで届く弓を引くことは、若いものでも大変である。
その秀次も、やがて秀吉にうとまれ、切腹
ふたたび主を変える羽目になった大島家だが、そこに関ヶ原の戦いが起こる。
大島家では、東軍と西軍に息子たちをそれぞれ分けることにした。家名を残すための策である。
大島光義自身は東軍に与することにした。
なんと、大島光義は、齢九十三にして、関が原に出陣したのである。「七十などは鼻垂れ小僧じゃ」
関ヶ原では、大垣城の押さえに回されたので、華々しい戦功をあげることはできなかったが、それでも家康の褒章を受けている。


評価は☆☆。
驚きの人物である。
このような武将を歴史から掘り出しただけでも、この著者は素晴らしいというべきだろう。
もちろん、小説の出来も文句なし。

私は、中学校の頃に弓道部に属していた。
剛弓であればあるほど、まっすぐに強い矢が飛ぶ。当時の部室にあった一番強い弓は15KGの引き量だった。
これは私には重すぎて充分にひけず、その下の14KGを引いていた。
女子はだいたい12KGくらいの弓である。
これで、競技の遠的になると、75M先の直径1Mの的を射るのだが、これがなかなか当たらない。
75M先に届かせるためには、矢をかなり上に向けて放つ必要がある。放物線を描いて、思ったところに「落とす」のは、なかなか困難である。
大島が何町先の相手を射たとか、五重塔の一番上の窓に射込んだとか、まさに化け物だと思う次第。

それにしても、70は鼻垂れ小僧とはなあ。
私なんぞは、まだ赤子同然という話になる。いやあ、参りました。