Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

道誉と正成

「道誉と正成」安部龍太郎

 

舞台は太平記の時代。楠木正成千早城籠城の場面から始まる。正成の巧みな籠城戦は護良親王との密接な連携によって成り立っており、各地で反幕府勢力は相次いで挙兵する。後醍醐天皇隠岐の島から名和や塩冶らが脱出させ、播磨では赤松円心も挙兵。幕府軍は持ちこたえきれずに退却する。佐々木道誉もこの流れにのり、足利高氏らとともに反幕府につく。

実は、道誉と正成には共通点があり、それは両者とも悪党だという点であった。鎌倉期末の徳政令は有名だが、その一環で神領興行令というのがあった。これは、借金取りに取り上げられた寺社の領地をもとの寺社に返すということで、土地支配によって成立した鎌倉体制を揺るがすことになったのであるが、寺社としては土地は返ってきてもカネを調達する手段がなくなった。徳政令が出るようでは、担保が担保でなくなってしまうので、危なくてカネを貸せない。そこで寺社は現金収入を得る方策が必要になった。そこに、土地に帰属しない(土地を失ったとも言えるが)武家が絡む。寺社と結んで、商業=物流でカネを確保する方向に走るものが現れたのである。こういう新興の武士は、従来の領地を安堵されたことによる「御恩と奉公」の関係が成立しない。よって、誰にも従わないわけで、こういう連中を「悪党」といった。今の言葉のニュアンスでいうと「やんちゃ」に近いらしい。善悪の悪、という意味合いは当時は薄いようである。

佐々木道誉は琵琶湖の水運、楠木正成紀州の海運を握っており、そこで莫大な資金力を誇っていた。よって、武士たちを動員してカネを払うことができる。そこが強みであった。

やがて鎌倉幕府は倒れ、建武の新政が始まるが、後醍醐の政治はいきなり300年前の制度に世の中を戻そうというもので、あちこちに齟齬が生じた。さらに征夷大将軍に任じた護良親王足利尊氏の間に政争が起こるが、護良親王が帝位を狙っているという讒言を信じた後醍醐天皇護良親王を見殺しにしてしまう。正成は護良親王の生存を信じて、新政に反旗を翻した足利勢と戦い、一度は東北の北畠顕家の協力の下、勝利する。

しかし、新政が自分たち悪党の権益をまったく無視した政治になったことに失望していた道誉は尊氏に寝返っており、いったん九州に落ち延びて再起を図るように助言する。博多は当時の日宋貿易の港であり、国内で流通する宋銭の輸入元であった。銭の蛇口を抑えてしまえば、新政側に勝ち目はないという戦略である。これにより、資金源を立たれた新政側は勢力を失う。

正成は、自分の理想にばかりこだわり、民の実情を見ようとしない後醍醐帝に失望し、激しい怒りのもとに「七生報国」を書き残して出陣する。自分が死ぬのは国のためだが、決して帝のためではない。七生報帝ではないのだ。。。

 

鎌倉幕府の瓦解と新政の誕生、そしてあっという間の崩壊、足利の台頭については太平記の特に前半に詳しいわけであるが(太平記の後半はわけわからん世界観になる)まさにドラマの連続である。

著者は、そこに現代作家らしく経済の問題を大きく取り上げて書いている。道誉と正成を、それぞれの勢力の軍師であり、かつ悪党同士という捉え方である。新興背力である悪党の利権に対して理解があるのが足利(もっとも、それは駆け引きの産物だが)と、理解のまったくない後醍醐(理想論に走るあまりに、現実的な妥協も取引も拒否する)の差でもある。本来は、そこを埋めるはずの存在が大塔宮護良親王だったが、後醍醐天皇に疎まれたことで終わってしまったのだ、という書き方になっている。

ひとつの見方ではあると思う。なかなか、面白い。

評価は☆☆。

 

ところで、後醍醐天皇は本書にあるように「強烈な復古主義者でどうしようもない理想主義者」というのがおおかたの相場であろうが、実際の人物像はどうなのか。

実は、そういうイメージとはかけ離れた話も伝わっているのだ。

現代でも使われる「無礼講」というのは、もともと後醍醐天皇がはじめたものだというのがそれである。身分に関係なく、酒を飲んで談論する。実際は、後醍醐天皇は進取の気性に富んだ方であったのかもしれない。過激すぎて、逆に旧勢力の武士階級からすれば、嫌な存在であり、それで新政に失敗することになったのかもしれないとも思ったりするのである。

改革を唱えるのは簡単なのだが、実際はそれで不利になる人達がたくさんいるわけだ。それをどこまで抑え込めるのか。そのあたりが、つまりは「政治」そのもの、なんじゃなかろうかと思ったりするのである。