Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

「釈迦」

「釈迦」瀬戸内寂聴

nazunahさんのブログに触発されたのか、つい手にとって読んでみた。
世尊(ブッダ)の寂滅したときの、最後の旅を描いた小説。著者の瀬戸内寂聴は、この小説を80才を過ぎてから書いたそうである。えらいものだ。

アーナンダは世尊の従者である。若い頃からずぅーと世尊の世話をしているが、残念ながらいつまでたっても悟れぬままである。世尊は、「おまえは、私の世話ばかりをして、自分の修行ができなかったから」と言われる。しかし、アーナンダは知っている。自分の才がない故に、修行の成果が上がらないのだと。世尊は、優しさでそう言われているに過ぎないのだと。

アーナンダの昔の恋が語られる。その相手も既に亡い。ウッパラヴァンナーの罪業、世尊の継母の罪業も語られる。それはみな、渇愛のもたらすものである。この煩悩がいちばん厳しい。

沙羅双樹の樹の下で、世尊は静かに寂滅する。アーナンダは、世尊を失い、魂の抜け殻のようになって、かつて世尊とこもった霊鷲山に登り、一人座る。雷鳴響く豪雨の中、座り続けたアーナンダは、突然、何故自分がここに座っているのか、自分の過去生から今までのすべてを見通し、理解した。
そのとき、懐かしい世尊の声が響く。
「アーナンダよ。今こそ、阿羅漢(の悟り)に達した」と。


仏教というのは、逆療法ではないか?と思うことがある。
人間にとって、死は怖ろしいものである。自分の死が避けられぬというのは、未来を推し量る能力をもった人間に特有の苦悩であって、それ故、私は過去のブログで宗教の目的を「死の恐怖の克服」であると定義した。そのとき「聖性」ではないか、という指摘を頂いて、それはそれで納得したのだが、一方で死の恐怖のない生物に宗教は存在しないだろうという思いがある。

仏教では、四苦八苦というように「生老病死」というこの世は苦であると教える。つまり、必ず老いるし、病気になるし、いつかは死なねばならない。それで人間は苦しむ。考えてみれば、それはすべて生きているからである。つまり、生きることは苦である、と。

だから、死については「当たり前」だと言う。いつか死ぬのは、生まれたときから定まっていたことではないか、と。そして、さらにこういうのである。「うかうか死んじまうと、また生きて苦しまなけりゃならんぞ。」と。仏教では、輪廻転生は「困ったこと」である。また生まれるということは、また苦しむということである。だから、ちゃんと修行して、輪廻転生しないようにしましょう(解脱)。

西洋キリスト教では、永遠の生命という。最後の審判のときに、善行を行った人間は、再び生き返り、永遠の生命を得るのだという。それが、キリスト教徒の最大の福音である。
この話を仏教徒が聞いたら、最大の苦だというであろう。

宗教問題というのは、相容れないものだと思う。宗教が違えば、根本的価値観が違う。それが当たり前である。あることが宗教であるか否かも、それ自体が宗教問題である。かつてアメリカ人は、日本人の祖先崇拝は単なるアミニズム、シャーマニズムであって、宗教ではないと言ったのである。
アメリカ人の持っているキリスト教を仏教の立場から言えば、単に煩悩だと言うであろう。

あまり書評に関係ないことを書いた。

さて、評価は☆。しみじみとした筆致で、説教くさくないところが良い。ちゃんと小説になっている。世尊が人間くさく、それでいてちゃんと宗教者であり、ラストも胸を打つ。
たいへん良い本だと思う。もっと齢を重ねたときに読み返したら、もっと良くなるかもしれない。