Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

「クラシックを聴け!」

「クラシックを聴け!」許光俊

この本は、単なる「クラシック音楽入門ガイド」じゃない。いや、そういう役目もあって、ちゃんと入門書にもなるのだが、そんなことはどうでもよいのだ。
この本は「日本人がクラシック音楽を聴くこと」=「西洋近代思想の受容」であるという指摘を視点として明確にもつ。音楽を通じて、実は西洋近代思想というものを明らかにしていくのである。
この本で、私は突然理解したのである。そう、ある日突然、すべてが理解されてしまうのだ。悟りである。

西洋クラシック音楽は「なる音楽」である。「ある音楽」ではない。
その典型が「ソナタ形式」という奴である。
まず主題Aが現れ、それに対抗して主題Bが現れる。AとBは互いに発展していく。そして、その発展と緊張とが突然統合され、新たなCが現れる!そのあと、すべては解決と収束に向かい、平和なDが現れて幕。
クラシック音楽のパターンは、基本的にこれである。
そこには、最初からできあがった「ある音楽」ではない。音楽は、主題AとBが成長しながら「なる」のである。
西洋音楽が、グレゴリオ聖歌をはじめとする中世宗教音楽だった頃、音楽は神のために演奏された。しかし、ルネサンス以降、音楽は人のために奏されるようになった。ベートーヴェンは、貴族ではなく庶民がもった初めての音楽家である。そして、ベートーヴェンは「苦難に打ち勝つ」人の姿を音楽で描いた。それこそ、最大傑作「第九」である。

西洋近代思想とは、簡単に申せば「弁証法」である。Aがあり、Bがあり、それは互いに対立しながら発展し、そしてAとBは止揚されて素晴らしいCが現れる!あとには、素晴らしい世界がまっているのだ。
その劇的な止揚の場面が「フロイデ!(おお、友よ!)」という第九の合唱が響き渡る瞬間である。

しかし。。。
「そんなことできるわけねーじゃん」と、いきなり言い切った作曲家がいる。それこそ、シューベルトである。世俗名曲と言われている「未完成」交響曲こそ、それである。
「未完成」は、わずか2楽章しかない。第1楽章は、やはりAとBの対立で始まる。明るく美しいA、暗く恐怖を感じるB。AとBはお決まり通り、生成発展していく。しかし、1楽章では決着がつかない。なんとなく、未解決のまま終わる。
そして第2楽章。音楽は、突然、明るく軽く清澄な響きとなる。1楽章の主題を振り返ることはあっても、もう何もこだわりはない。どんどん響きは軽くなっていく。これは、明らかに諦念であり、死である。シューベルトは、主題AとBの解決に、涅槃を描いた。

主題Aと主題Bがあって、それが必ず止揚され乗り越えられていくなんて「ウソじゃないか」とシューベルトは言ったのである。楽聖ベートーヴェンは、純音楽に声楽を持ち込んだ、だけど、そんな「革命」を誰もができるわけないじゃないか。人間は、もっと弱い生き物だ、つねに苦難に打ち勝ち、必ず昨日より今日が素晴らしい歴史なんかあるわけがない。
しかし、そのような弱い人間にも救いがないのか?ずーっと苦しまなくてはならないのか?
シューベルトは、救いは「ある」と言った。それは「死」である。諦念である。

大学時代から、どんどん西洋音楽に引かれ、名曲のレコードを200枚集めて私は聞いた。しかし、その何を聞いたと言えるだろうか?
「ああ、未完成ね。あれは、クレンペラーの名盤が、、、」どうでもよろしい。そんなもの、音楽を聴いたうちに入らぬ。
我々は、「名曲」を馬鹿にしすぎていないか。「もう聞き飽きた」しかしいったい、どんな聴き方を自分はしてきたんだろうと思うようになった。「未完成」は、クラシック究極の1曲になる資格があるだろう。

「ある」のではなく「なる」という前提があるから、西欧近代思想は必ず矛盾は解決されなければならぬ、と説く。いや、矛盾とは、止揚されるべき対象であるというのが、そもそも出発点である。
ただ現実は、それはそのままに、ただ時が流れ、人はやがて死ぬだろう。

評価は☆☆☆である。これは名著だ。
クラシック音楽を聞き込んだ人に勧めたい。本書を一読すると、いきなり音楽の聴き方が変わるだろう。
そればかりではない。小説も演劇も、さらにはフランス料理さえも、いろいろなものが分かるようになってしまうはずだ。
理解するのではなくて、いきなり「が~ん」とくる。この感覚は衝撃である。

ところで。
本書には詳しく書かれていないが、ベートーヴェンの傑作は交響曲じゃなくて、後期弦楽四重奏曲じゃないか、と思う。ピアノソナタをあげる人もいるが、私は弦楽四重奏曲のほうをとる。
滅多に聞けない音楽であるけどね。