Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

靖国問題(1)


私singleと、老師との本書をめぐる対談であります。なお、本書に関しては、巷間語られ尽くしたようにも思えますね。
なぜ今なのか?といえば「古本屋で値段が下がるには、ちょっと時間がかかる」からです(笑)

私「老師よ。本書でございますが、当時は『靖国本の決定版』ともうたわれました」
老「本書は、実に丁寧に、逐条で問題が取り上げられておる。その親切心が売れた原因じゃろう。顧客サービスは、大事なことじゃ」
私「それでは、老師の論考も、逐条でお願いします」
老「めんどうなことを、老人にさせるでないぞ。大サービスじゃの。。。くたびれる」
私「(無視して)まずは第1章『感情の問題』です。つまり、靖国は、遺族の『悲しい』という感情を『顕彰』に代えてしまう装置である、と。この指摘に関して、老師はいかが思われますか?」
老「その通りであろうの」
私「しからば、やはり『感情の錬金術』ですね」
老「そう言えば、言えるであろうのう」
私「右派の主張は『顕彰して何が悪い』が代表です。」
老「そこまで言うと、もはや別の次元の問題であろうな。つまり、会話が成立しない、ということじゃ(笑)」
私「そうですなあ(笑)では、会話成立レベルを目指した場合、この『感情の問題』は批判されるべきでしょうか」
老「キリストは、全人類の罪を背負って十字架にかけられたのじゃ」
私「は?!」
老「知らぬのか?キリストは、磔刑に処せられて死んだ。それは、人類の罪の贖罪のためである。それを、もしも『キリストは、単なるマヌケだった』と言えば、キリスト教は成り立つであろうか?」
私「それは、、、ムリです。」
老「ならばじゃ。釈尊は、死は誰にでも訪れるものゆえ、悲しんではならぬ、と言われた。では、釈尊の入寂は、悲しいことではないのであろうか?」
私「いや、もちろん悲しいことでしょうが、それは仏教の言う必滅の理ですから、いたずらに悲しんではいけないのです」
老「そうであろう。ならば問うが、どうしてキリスト教も仏教も『ただ人の死を悲しいとして、そこにとどまる』ことがないのであろうか?」
私「あ。。。」
老「もしもそれを『感情の錬金術』と称すのであれば、回答は唯一である。すなわち、すべての宗教は錬金術じゃ」
私「たしかに」
老「もう一つ教えてやろう。イスラムのジハード(聖戦)では、そのために死んだイスラム教徒は、天上で豪華な御殿に住み、美味い酒と料理が飲み放題の食い放題、その上うら若き処女50人の妻が捧げられる、となっておる」
私「ご、50人ですか!それは、なんとも、嬉しくも困るような」
老「誰がお前に困れと言った?(じろり)当たり前じゃが、人の死は悲しいものじゃ。そして『悲しいで済んだら宗教はいらん』のじゃ」
私「宗教は、そもそも死の悲しみや苦しみから出発していますからねえ」
老「つまり、高橋哲哉の『感情の錬金術』は、早い話が『宗教はいけません』という主張に過ぎぬのじゃ。正体みたり、どこかできいたような話であろう」
私「ははあ、民衆のアヘンだから、ですか(笑)」
老「つまり、正体は、手垢のついた18世紀末の思想じゃ」
私「ただの左巻きではありませぬか。。。しかし、宗教の論理とは、思えばめちゃくちゃなところもありますなあ」
老「それは、青白きインテリの感慨にすぎぬな。大衆は、まず生きねばならぬ。日々の生活に苦労し、ある日理不尽な死に突然追いやられる。それでも、ただ運命と思うて従うしかないのも大衆じゃ。その大衆の『生きる論理』として宗教はある。最初から、無神論者の象牙の塔に閉じこもったインテリどもの相手なぞ、考えてはおらぬわさ」
私「うう、そこですか。それにしても、昨今の日本人は無神論者も多いのではないでしょうか?」
老「今の日本人は、とりあえず食えておるからの。それでも、ホントの無神論者は、昨日死んだ親を今日は生ゴミに出すであろう。人は死ねばゴミじゃからの。あれは宗教、これは非宗教と区別するのも難題が出てくる、ということじゃ」
私「それでは、次『歴史認識の問題』にいきますか」
老「うむ。ちょっと休憩してから、じゃ」

(以下、老師の調子が出てきたときに続く。老師は気まぐれなのですいません。。。)