Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

総理大臣公選制

安部晋三氏が「憲法改正」に意欲を見せたと話題になっている。
しかし「自主憲法」は自民党の党是である。自民党の政治家としては、当然だろうと思う。
ちなみに日本共産党も「自主憲法制定」である。ただ、その内容が自民党とは水と油ほど違うのだが(苦笑)
だけど、虚心坦懐にみれば一致するところもあって、私は個人的には「歴史観」「イデオロギー(という名の感情論)」を抜きにすれば、自民党共産党は政策協定を結べると思うけどね。
いっそ「保革合同」して「自共民産党」と名前を変えたら、、、さすがに選挙には勝てんわな~。(笑)

それはともかく。
憲法改正をどうせやるなら、いっそ「総理大臣公選制」はどうだろうか?と思うのである。
これは、小泉首相のアイディアでもあるわけだが。

小泉首相はすぐれた政治家であったが、その最大の特徴は「国民の代表」たらん、としたところである。それは、必ずしも「すぐれた指導者」たらんとした、ということではない。

考えてみると、代議員制度というのは「人格・識見の高い人」を選んで、その人たちがリーダーとして首相を選ぶ、というシステムである。つまり、議員、分けても総理というのは「もっとも人格識見が高い人」となる。しかし、なかなか人格や識見など分からないもので、よって選挙が人気投票になってしまいがちな問題がある。で、日本のマスコミは、この基本線に乗って政治家批判をすることになる。

しかしながら、実際に現在の選挙では、与野党ともに「政策選挙」を志向していることは間違いあるまい。これは、代議員に投票するのではなく、その人が主張する「政策」に投票しよう、と言っていることになる。景気回復か福祉重視か、青少年教育重視か老人福祉か、消費税を上げるか据え置くか(あるいは下げか廃止か)、防衛力整備か非武装か(苦笑)、治安回復か自由重視かなどなど。
で、なかなかピッタリ同じ考えの代議士がいるとは限らないが、まぁまぁ近いと思う人を選ぼう、というわけである。
いってみれば、選挙が「マーケティング化」したのである。企業が行うマーケティング調査において、その調査結果と全くピッタリ同じ嗜好の消費者なぞ実は一人もいない。それは、すべてが「平均」ピッタリだからだ。学校の生徒でも、全教科で偏差値50ピタリをとれと言われたら、これは難しいだろう。しかし、なぜか一人もいない「ピタリ平均値」の消費者に向けた商品がもっとも沢山売れる。市場との乖離がもっとも少ないのである。(なぜそうなるのかは、今でもわかっていないそうだが)

有権者ともっとも近い政策を持つ代議員が支持されるのが「政策選挙」だとしたら、それは「すぐれた人物」である必要はないのである。そうでなく、有権者の持つ政策観にもっとも近ければ良いのである。
小泉首相の政治は、しばしばポピュリズム政治と批判されたが、実はその根本には「代議士」という「偉い人」が「民衆」を「リードする」という発想がなかったことを、もっと指摘されるべきだろう。彼が目指したのは「もっとも民衆に近いこと」であって、「民衆をリードする」ことではない。だから、小泉首相は、しばしば国民に直接政策を訴えたのである。それは「私が民衆を教え導く」のではなく、「民衆の声にもっとも近い者が政治をする」ということであった。民衆の声に近くない者は、政治の世界にふさわしくない。たとえ「識見が高くても」だ。これはコペルニクス的転回といってよい。

よく考えてみれば、民主主義の世の中にあって政治家が「卓越した見識で、民衆を導く」人間である必要などない。むしろ害毒である。うまくいかないことがあれば「政治家の見識がなかった」つまり「エライ人が実はエラくなかった」という総括が為されるだけである。こんな政治が、どうして民主主義でありえようか?
エライ人などいらないのである。民主主義の世の中で「正しい」は、「民衆に近いこと」であり、特別に立派な人格や識見など不要だ。

このような思考を推し進めていけば、当然に「総理大臣公選制」が正しいことになる。代議士は、各地域や団体の利益代表に近い。それぞれに有利な政策を主張するであろう。では、日本国民全体の意見の「平均値」にもっとも近い者は誰か?それが総理大臣だというのは、それなりにリーズナブルな考えではあるまいか、と思うのである。