Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

環境保護運動はどこが間違っているのか

環境保護運動はどこが間違っているのか」槌田敦

以前に割り箸の話でも指摘したが、環境保護運動は、その運動の結果が目的どおりにならない。割り箸をやめて塗り箸にする場合でいえば、その箸を再利用するのに使われる洗浄のための洗剤や水道水もすべて石油によって供給されているのである。仮に割り箸を燃やしても、もともと樹木が生長したときに吸収したCO2が放出されるだけなので、地球総体でのCO2量が増えるわけではない。

私の町でも、最近になってペットボトルのリサイクルをするようになった。ガラスのリサイクルと同じで、分別回収用の袋が準備されている。
無視して不燃ゴミに捨てていたら、わざわざ回覧板で「ペットボトルのリサイクルに協力するよう」言ってくる。余計なお世話である。

本書によれば、ペットボトルのリサイクルは、そのリサイクルのために必要な石油を勘案すれば、全く意味がない。ペットボトルをそのまま再利用するならともかく(それでも、洗浄処理で石油を使うが)再びPET樹脂に戻して使うのであれば、そのエネルギーは膨大である。

もっとひどいのは牛乳パックである。牛乳パックの内側には、牛乳が漏れないようにフィルムが貼り付けてある。だから、牛乳パックのパルプをリサイクルするためには、このフィルムをなんとか処理しなければならない。そのコストは、ヴァージンパルプを使うよりも遙かに高くつく。リサイクル工場には、こうして処理できない牛乳パックが野積みされたままになっているそうである。

自治体が、古紙回収を始めたら、民間の古紙回収業者が全滅に等しくなってしまった。古紙を回収して、トイレットペーパーと交換するためには、古紙の価格が維持されなければならない。自治体がどんどん古紙を回収して、その結果古紙の価格が暴落し、おかげで古紙回収をしていない地域の業者までが経営難になってしまった。どうして、民間でうまくいっていたリサイクルシステムを、税金を使って破壊する必要があるというのだろうか。

評価は☆。リサイクル運動の実情を知り、不毛なリサイクル教から脱するためには役に立つだろう。

CO2が「地球温暖化」の原因だという説は、米国が発祥なのである。その背後には、なんとか原発を再開したい電力業界の思惑があったとされる。「原発=CO2削減、だから環境に良い」というわけである。本書の著者槌田氏をはじめとして、「反環境保護運度派」が「反原発派」だということは、頭にいれておくべき知識であろうと思う。

私の知る限り、このような「環境保護運動」に疑念を提示した最初の論客は、名古屋大学武田邦彦教授だったと思う(現在は中部大学教授)。
本書の主張も武田教授の主張と多く重なるが、私には著者の妙に尊大な態度は多少鼻につく。武田教授の場合には、そんな感想をもったことは一度もない。それどころか、大変尊敬すべき学者だと思っている。

武田教授の指摘は、地球の温度はもともとゆっくりした大きな変動のリズムがあり、恐竜時代にはもっと暑かったし、氷河期のような寒い時期があり、現在の地球は温度の上昇期に向かっているはずだ、だから地球温暖化にはCO2はもともと関係が薄いのじゃないか?ということなのである。
そして、「それでも、環境保護運動は良いことじゃないか」という反論に対して、具体的な一つの事例を挙げている。
それは「セベソの60人」である。

昔、セベソという町で、化学工場の事故があり、町の人たちに日本の環境基準の10兆倍のダイオキシンが降り注いだ。ダイオキシンは「史上最悪の毒物」であり、特に妊娠していた女性達に「奇形児が生まれる」という話があった。そういうことを環境運動家が指摘したのである。
女性達は悩み、多くの人が涙をのんで中絶をした。一方、奇形児が生まれてもと決心をして、そのまま出産にのぞんだ女性もたくさんいた。
そして、そのような勇気ある決断をした結果生まれた子供には、誰一人、奇形はいなかったのである。
中絶した女性達は、中絶のとき悲しみ、そして、よその赤ちゃんが元気に生まれて育っているのをみて、また悲しまなければならなかった。「どうして、私は赤ちゃんを殺してしまったのだろう!」

この悲しみに対して、「環境保護運動家」達が、なにか責任をとったわけがない。彼らは、ただ、あおっただけである。

「たとえ役にたたなかったとしても、環境保護を訴えること自体は良いことじゃないか」
本当にそうだろうか?

世の中には、そのようなことがほかにも沢山あるのではないだろうか、と思うのである。「たとえ、実態はそうじゃないにせよ、主張すること自体には価値があるじゃないか」
私は、そんな意見はやっぱり信用できないのである。