この主張の奇々怪々さに、大変悩ましい思いをしているのは私だけなのであろうか?
そもそも「年金」は、我々国民が払った保険料でまかなわれている。
一方、「責任をもって」という国はどうだろうか?
「国」にカネが湧いてくる井戸があるわけじゃなし、早い話がその財源は「税金」である。言うまでもないが、これも我々国民が払っている。
「国」にカネが湧いてくる井戸があるわけじゃなし、早い話がその財源は「税金」である。言うまでもないが、これも我々国民が払っている。
されば、である。
「国が責任をもって」は、以下のように書き換え可能である道理となる。
↓
「我々国民の払ったカネ(の記録)が消えてなくなったので、我々国民がカネを払って埋め合わせするべきだ」
これを奇々怪々と呼ばずして、これ以上に奇怪な話があるもんか。
「国が責任をもって」は、以下のように書き換え可能である道理となる。
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「我々国民の払ったカネ(の記録)が消えてなくなったので、我々国民がカネを払って埋め合わせするべきだ」
これを奇々怪々と呼ばずして、これ以上に奇怪な話があるもんか。
この「国が責任をもって」議論には、少なくとも2つのおかしな点がある。
1.そもそも「なんで年金(の記録)が消えたのか」という責任論がどこにもない。ただカネがなくなったから、そのぶん余計に払えで、なんと被害者にツケを回しているのである。ヤクザでも遠慮するような類の主張である。原因がどこにあって、どういう再発防止策をとるのか?それこそが政策であるはずだが、そっちの話は素通りである。
2.国というのは、基本的には国民そのもの、である。であるから、国のカネは国民のカネである。その国を、あたかも「国民と利害対立する赤の他人である」という前提が無くては、このような議論にはならない。カネだけとって、後のことは赤の他人として考えろ、という理屈は成り立たない。政府は基本的には国民の執行機関であって、決して第三者ではない。
というわけで。
「国が責任をもって」に私は大声で叫びたい。「俺は欺されんぞ」
「国が責任をもって」に私は大声で叫びたい。「俺は欺されんぞ」