最近、たくさんの企業でたてつづけに不祥事が起こり、テレビで謝罪会見を見る機会が多い。
なんとなく、それなりに社歴の長い企業に多いように思う。そういう会見を見ていて、ちょっと想うことがある。
先に述べたように、インサイダー取引を防ぐために、株式公開している企業の役員には厳重な機密保持の義務がある。ウソをついて良いわけではなく、ただ「秘匿」が求められる。「しゃべるな、隠せ」というわけである。そうじゃないと、公平な投資の機会が失われるから。
で、謝罪会見では「どうして、本当のことを言わないんですか!」と詰められている。もちろん、不祥事を起こしたわけで、ちゃんと真相究明して対策を講じる、責任を明確にする、いわゆる「説明責任」を果たさなくてはいけない。
つまり、「正義」とは「隠すとき」には徹底して隠し「公開する」ときには「きちんと公開」する、というあくまでも「その場面に相応しい対応の判断」をすること、ということになるのである。
だから、そういう立場に長くいると「正直が美徳」という倫理観が育ちにくいのじゃないか、と思うのである。あくまで、状況に合った判断が正しい判断である。
だから、そういう立場に長くいると「正直が美徳」という倫理観が育ちにくいのじゃないか、と思うのである。あくまで、状況に合った判断が正しい判断である。
それは、経営そのものだって同じ事で、企業は基本的に環境適応するものであるから、状況に合わせないといけない。
最近「KY」(空気読め)が流行である。上記の謝罪会見でも「空気読めない人」だからいけない、みたいな論評のされ方になる。
KYと言われる立場で考えると。
なんでもかんでも「KY」な人生を送っていると、いったいどうなるか?これは「カメレオン」なのである。その場に合わせて切り替える、その「軽さ」が正義なのである。甲が流行れば甲、乙が流行れば乙。「自分がない」のが武器なのだから、これは仕方がない。
なんでもかんでも「KY」な人生を送っていると、いったいどうなるか?これは「カメレオン」なのである。その場に合わせて切り替える、その「軽さ」が正義なのである。甲が流行れば甲、乙が流行れば乙。「自分がない」のが武器なのだから、これは仕方がない。
政治家でも、企業経営者でもそうなのだ。
この国の指導者達が、みな信念に欠けるのは事実だと思うな。しかし、そうでなければ、指導者にはなれない。いわば「空気に忠実」なのが指導者の条件なのだからね。
え?!何をラチもない戯言をいっているのか、ちゃんと空気読め、ですと?!
こりゃあ、失礼しました。。。
こりゃあ、失礼しました。。。