Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

本質を見抜く力

「本質を見抜く力」養老孟司・竹村公太郎。
副題は「環境・食料・エネルギー」。

またすごいタイトルである。本質を見抜く力なんて、そんなものを皆がもったら大変なことになるように思う(笑)。
けれども、あの養老先生だから、きっと面白いだろうと思って購入。ファンとは、そんなものである。
しかも、今回は対談本なので、気楽に読めるだろうと思った。

まず、環境だが、例の京都議定書問題を取り上げる。もっとも省エネ先進国の日本が、あんなものを批准するのは馬鹿げているわけである。
養老先生は「それなら、世界中が日本の機械を使えば省エネになるわけだが、そうすると日本のCO2排出量が上がってしまう」という矛盾を述べる。
そもそも、全地球的な観点で省エネを考えなければ意味がないのだが、現実はただの外交合戦であり、それもあっさり負けてくるのだから(苦笑)こりゃ仕方がないわな。

食糧問題については、日本の食料自給率データが、ある時点からカロリーで表記されるようになったことに疑問を呈する。
カロリーではなくて、金額ベースでの食糧自給率は70%であり、カロリーベースの39%とは大きな隔たりがある。
これは、国が豊かになれば、有る程度は避けがたいのだという。何もない貧乏なときは、まずカロリー優先で芋やカボチャをつくる。
しかし、国が豊かになってくれば、野菜やフルーツ栽培も増える。カロリーは低くなるのである。

エネルギーについて。
注目すべきは、江戸時代の「完全循環社会礼賛」を批判していることである。
江戸時代の人口は3000万人に達した後、増えていない。これは、子供の間引きや姥捨てがあっての話である。
その原因を「エネルギー不足」だろうと指摘する。
つまり、江戸時代のエネルギー源は薪炭しかない。山から薪を拾ってきて燃料にして、炊事も鍛冶も照明もまかなうことになる。
そうすると、たぶん人口3000万人でマックスではないか、それが明治維新による開国で、石炭をエネルギー源とできるようになって人口が増えたのではないか、というのだ。
先日読んだ「森林からのニッポン再生」中の記述「江戸時代はみな禿げ山だった」と見事に一致する。なるほど、と思わざるを得ない。
これは、モノから入るという科学の思想の賜物だろう。
なるほど、たしかに「本質を見抜く力」だと思うな。

評価は☆。養老先生のファンにはおなじみの内容ではあるけれど、やっぱり面白いな、ということで。

思うに「本質を見抜く力」というのは、本書は「モノ」を見ることだ、と言っているけど、単にモノをみたところで、何も思い浮かばなければ仕方がない。
モノを見て、それによって「仕組み」が思い浮かぶこと、すなわち仮説の構築が大事だろう。
そういうことは、ふだん訓練していないと、なかなか出来ないように思う。そんな「訓練」に、養老氏の本が向いている、と思うのである。
対米依存経済からの脱却のためにはドルを燃やしちゃえ、なんていう議論を見ると「経済学のなあんにもわかっちゃいないじゃないか」と思うだろう。けれども、解剖学者が経済学に無知なのは当然である。単純に、モノとしてドル債権を見ちゃえば、そういうふうに見えますよ、という話なのである。
「ものの見え方」が、本人の政治的主張であると思いこむのは、政治的思想に毒された人間であって、そういう次元とは別の部分で考えるべきなのだと思う。。。

まあ、私はファンなので、そんなふうに思うのでしょうなあ。(苦笑)