Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

昭和史最大のスパイM

「昭和史最大のスパイM」小林峻一・鈴木隆一。

戦前の「非常時共産党」を壊滅させた「熱海事件」の主役、松村昇(偽名)ことスパイMの半生に迫った作品。

非常時共産党は、戦争づくめだった戦前日本の中での共産党の呼称である。組織は最大7000名を超えたというし、ソ連コミンテルンからの資金援助もあり、戦前の共産党としては最大の戦力を誇っていた。
その非常時共産党だが、全国から幹部を集めて熱海で集会を行おうとしたとき、なぜか会合のことが特高警察に漏れており、主だったメンバーがすべて逮捕されて壊滅的打撃を受ける(熱海事件)。
このとき、実は党の大幹部だった松村が、実は特高警察のスパイとして仲間を売っていたのだった。最大幹部がスパイなのだから、もはやどうしようもない。

なお、共産党は戦後も地下でMを追い続けるが、彼はついに偽名のまま、その天寿を全うするのである。葬式が終わってから、なんと「戸籍がない」ことがわかり、埋葬許可が下りないという事態に至って、ついに子ども達にも真相が明らかになるのである。

このMが転向した理由であるが、どうもソ連のクーベト留学したときが転機だったらしい。ロシヤ語になかなか慣れることができずに、劣等感を味わっていた背景がある中で、スターリントロツキーの抗争を見てしまったのがきっかけで、共産主義に幻滅したと書いている。
トロツキースターリンの誤りを指摘するときの迫力、その論理の強固なことは大したもので、日本から留学してきた連中は皆トロツキーを尊敬していた。ところが、学習時間が終わって談笑になると、スターリンは「トロツキーユダヤ人だろ」といい、仲間もニヤニヤとそれを肯定していたのだという。
おそらく、Mにとっては「正しいことを主張しても人種的偏見で取り上げないスターリン一派」であり、その一方で「共産主義体制のもとでは人種差別はない」と平然と矛盾した主張をするスターリンを見限ったのであるようだ。

なお、Mは党の大幹部として、ギャング事件(銀行強盗)の指示も下した大物であり、しかもその「収益金」を着服していた節がある。さらに、党にも信用を得るため、適宜、官憲情報を提供したようだ。有能なスパイは必ず二重スパイなのである。

フィクションではなくて、これがノンフィクションであることのほうが驚きと言わねばならない。
死に間近くなったMが書き残す「空間論」は、いっそ憐れである。
Mが主張するのは「唯心論」は単なる絶対制の支配論理であり、「唯物論」はこれに対抗しようとして、実はやはり別種の支配論理であると言うのだ。
そして、「心」と「モノ」が存在する「空間」そのものを、新たな理論的基礎として新しい理論構築を試みるのである。おそらく、当時の先端物理学である湯川理論や朝永理論の影響を受けたものであろうというが、彼自身の二重スパイという人生そのものを何とか死を前にして正当化したかったということなのだろう。
最大のスパイにして、なお人は自らの正当化をせずにはおられない。

評価は☆☆。
予備知識なくて読んでも、充分面白い書であるが、共産党史にある程度の知識があれば、なお面白さは増したことであろうと思う。
また、特高警察が当時は基本的に丸腰であり、武装した共産党員にピストルで撃たれて死亡するなど、時代背景もずいぶん参考になる。(もっとも、特高の活動を正当化するとかいうことでない。著者もそのようなスタンスはとっていない。まことに淡々とした筆致である)
☆が一個減ぜられているのは、私自身の教養不足のためである。