Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

衆愚はない

今回の選挙で、ふたたび「ねじれ」を選択した我が国の国民ですが、「国民も、マスメディアに乗せられているだけだ。情けない。そもそも投票率が低い。国民は、それにふさわしい政治家しか持てない」という批判があります。
私は、このような意見を「民主主義高踏派」と名付けております(笑)ま、そういうあなたも国民よ、などといっちゃあオシマイですが。

ただね。私は思うのです。
民主主義は、たしかに「賢い国民」もっと言えば「賢明な判断力を持った大衆」などというものが必要な制度であるが、それは既に満たされている。
だってそうじゃないですか。
貧乏人がいるのは金持ちが存在するせいだ、という主張が正しいとするならば(これはこれで一定の説得力を持つと認めます)愚者がいるのは賢者が(自称他称含めて)いるからではないですか。
大多数の国民(=大衆)が、バカな選択をしたんだと立派に批判する人がいるので、大衆は愚者になってしまうのです。
もしもそういう「立派な」人たちがいなければ、愚者も存在しない道理であります。
そして、そういう一握りの「大衆をバカにする人々」が、みんな賢者になる=互いに互いをバカと呼び合う賢い人々ばかりになったとしても成立するのが民主主義だという話なんですね(苦笑)

もうお気づきだと思いますが、そういう視点で考えると、大衆は皆が愚者ですし、また賢者であるといえます。
じゃあ、そのままでいい、ということにはなりませんか?

私が考えますに、いわゆる大多数の「バカな大衆」と一握りの「賢者」がいた場合に、そんなに賢者が正しいなら、その賢者に政治をしてもらったらいいだろう、というのが独裁制ですよね。
で、それはダメだとなっております。一握りの優秀な賢者の政治ほど、危ういものはないというのが人類政治史の結論なんですね。
そうじゃなくて、右往左往、わけのわからん大衆の一票による政治のほうが遙かにマシである、と。
むしろ、愚かな大衆を一握りの賢者よりも正しいことにしてしまおうとしたのが民主主義の本質でしょう。

政治はサッカーの試合ではありません。
よって、勝ち負けではありません。ひどい政治が行われ「○○党に入れた奴はバカ」と賢い人は思うわけですが、なあに、心配いりません(笑)
しょせん、そういう人だって、他の人からみればバカなんです。俺は賢いから勝った、大衆はバカだ、ああバカな選挙だった、とか言う。これだってバカに見えませんか(笑)
立場が違えばみんなバカです。これぞバカの壁ですよね。
しかし、勝ち負けはないんですから、なにもバカにしなくても(自分が賢いと思わなくても)いいんですよ。

かつて、宮沢賢治はいいました。
「北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろといい 
日照りの時は涙を流し 寒さの夏はおろおろ歩き
みんなにでくのぼーと呼ばれ 褒められもせず
苦にもされず そういうものに
わたしは なりたい」

これから、間違いなく日本の政治は迷走するでしょう。同じ日本人なのに、どうしてそんなに考えが違うのか、そう思うことになるでしょう。
国民のバカな選択のせいだ、そう賢い人たちがきっと言うでしょう。
しかし、まったく気にすることはありません。
民主主義の根本ルールは、なんと「一票の行使に対して、まったく責任は問われない」ということなんです。
もっといえば、その一票の結果は、否応なく自分に返ってくるわけで(棄権も含めて)それ以上の責任はありません。
人権と同じで、義務なき権利というわけですね。一種のおとぎ話なんですが、そういうフィクションで民主主義は成立しています。
フィクションを否定するなら、民主主義を捨てるしかないんです。(そこまで覚悟をもった主張であれば、それはそれで一貫性があります)

そして、もう一つ言えば、迷走する政治は、少なくとも相手の意見を聞く姿勢だけは、我々に与えてくれるかもしれない。その結果、我々が「そもそも日本人とはなんぞや」と気づくきっかけにだって、なるかもしれないわけです。
ま、希望的観測だし、それ以前に国家破たんが早いかもしれませんけど。

バカな大衆で、いいんじゃないかな。
むしろ。そういうものに、私はなりたい。