Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

日本辺境論

「日本辺境論」内田樹

昨年、大きな話題になった本。しかしながら、昨年は私自身が「日本人論」に飽き飽きしていたところだったので手が伸びず。
今頃になって読む。

一読しての感想だが、こりゃ面白い。
愛国主義的な右翼さんは、きっとこの本が嫌いだろうと思う。
私は右翼であるが、あまり愛国主義でなく、腰抜け右翼なので、こういう本は大好きなのである。

日本人論というのは、昔から色々言われてきたわけであるが、著者いわく「日本人はきょろきょろしている」のだそうだ。
日本人ほど日本人論を気にする民族はそういないわけで、そういうところも含めて「きょろきょろ」している。
よく日本人に言われるのが「外圧頼み」であり、一方で「外国文化の受容がうまい」のであるが、実はこれらは同根なのであって、つまり「受容するけど、受容の仕方が日本人的」だということになる。
面従腹背、とりあえず「ハイハイ」といいながら、言った後で相手の品定めをする。
「和を以て尊しとする」といいながら、実は論争をすると相手の言い分を聞かない、論争すること自体が思考停止になってしまうので、とりあえず「まあまあ」とやって、妥協してしまう。
なんでそうなのか?
著者はこれを「辺境人だから」だとする。

そもそも、日本という名前自体をよく考えると、「日の本」つまり日が昇る国で、どっから見て日が昇るかといえば、そりゃ支那である。
ベトナムが越南というのは越の国の南だからで、なんのことはない、支那が中華で、周囲は辺境だという指摘である。
幕末の佐藤なる尊皇派は、それゆえ「日本」という国号は国辱ものなのでやめるべきだ、とのたまったという。これは首尾一貫した主張であるといえよう。

評価は☆☆。
刺激に満ちた面白い本である。私は、なるほどの連続であった。
だから、すごく人生観が変わるか、といえば、そうではない。だって、私は日本人なんだもん(笑)。
「はい、はい、まことにさようでございますなあ」などといいつつ、結局美味しいところしか取らないのである。
えへへへ。

ところで、世界の標準というのが欧米のやり方だと思うのだが(賛否は別にして、である)そうすると、日本の外交下手もよくわかるのである。
欧米は、まずは最初に「がつん」とかます。それで、そのあとで、文句を付けると「じゃあ、しょうがねえな」と譲歩してくる。
最初から譲歩を迫られるのが分かっているので、先にかますわけである。
日本人の交渉は、最初に「まあまあ、仲良くやりましょうや」と握手しておいて「それでは、、、、」と条件闘争を開始する。「いやー、それではうちもしんどいんですわ、それは呑めまへんわ」といいつつ、落としどころを探るワケである。
これでは、なかなかうまくいかない。
TPP交渉の行方に、不安を感じるのは仕方がないであろう。
がつ~んとやられて「ハイ、わかりました」と言った後で「ところで、さっきの話ですけど。。。」とやっても時既に遅し。
北方領土も、竹島も、沖縄基地も、みんなそうである。最初のがつんで、勝負あったのである。
これはまずい。
日本人的には、まずとにかく「うん」といって、交渉のテーブルにのっけて、それから話し合って「まあまあ」とやって、落としどころを見つけると思っているのだが、相手は最初の「ハイ」で「やった、先生パンチでKOだ!」と思っている。
これほど、噛み合わない話もないわけで。

では、どうすればよいかというと。
仕方がないので、わかったような、わからないようなふりをしながら、ふにゃふにゃするしかなかろうと思う。
どうせ、他人の真似はうまいが、オリジネーターになれない民族なんである。
いや、たった1回、まさに世界をリードする大国民になろうとしたのだが、こてんぱんに負けて「もうしません」と一億総反省して終わってしまったのだ。
反省なんぞしなきゃよかったのだが、もう遅い。
さりとて、マサカ今更、もう1回やる元気はないわけだ。
じゃあ、結論は出たも一緒じゃないか。
「いや、もちろん、前向きに考えております、はあはあ」と言いながら、のそのそ、ふにゃふにゃする。
そのうち、世界は呆れ、バカにするはずだが、そうしているうちに時代も変わり、また報われるときもくる、そういう伝統的な作戦である。
誰からも尊敬されない上に、ようやく隠忍自重してチャンスがくると、今までの我慢の反動でついついはしゃぎすぎたりするのであるが。
まあ、それでも仕方がないじゃないか。
乾坤一擲、一か八か、世の不正をただす破邪の剣なんぞを振り回すのはごめん被る。
憲法9条だの、武器輸出三原則だの、世をたぶらかす屁理屈を弄しつつ、実は自分の懐のことしか考えないという卓越したあきんど根性がこの際、必要なのである。
そのくらい清濁併せのむ器量があって、はじめて興国がかなうというものだ。
護憲派だの反原発原理主義者だの、ようは使いようということ。
鶏鳴狗盗の類と思えば良いのだと思うが、、、そこまでの器量があると、大陸的というのでしょうなあ。

よって、相変わらず、せせこましい島国の中で、やれあいつはバカだとか、どっかの国の回し者だと、コップの中の喧嘩に憂き身を費やすことになる。
それはそれで、すぐれて日本人的なのだ、そういう結論に至るわけですなあ(笑)