Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

海軍航空隊、発進

「海軍航空隊、発進」源田実。

帰省中に、近所の古本屋で発見したもの。
海軍航空隊の生みの親とも言える源田実の、文字通り草創期の回想録である。

当時の飛行機は複葉機で布張りであり、まず、空母の甲板に着陸すること自体が大事業だと思われていた。
これには懸賞金がかけられ、外国人パイロットが成功、まんまと懸賞を手にした。
その後、日本人パイロットが相次いで3人、成功したため「三羽烏」と呼ばれたらしいが、彼らが飛行教官となったときには、生徒達は「あんなの、ちょっと練習すりゃ誰でも出来るじゃないか」と陰口をたたいたという。
源田は、これに対して「最初にやったものは、なんといっても偉いものだ」と弁護している。コロンブスの卵の喩えである。

有名な航空主兵、戦艦無用論についても述べている。爆撃機が進化すれば、その威力は戦艦の砲弾よりも大きく、その攻撃距離は戦艦の大砲よりも遙かに遠い。ならば、戦艦は無用ではないか。
さらに、その真意について、こう説明している。いわく、ワシントン条約において日本は対米6割の戦力しか保有できないが、いざ無制限建艦競争になっても、そもそも米国に勝てるはずもなく、彼我の差は開く一方であろう。
しかし、その戦力は、戦艦や巡洋艦ではないか。
そこで、我は、戦艦も巡洋艦もやめてしまい、飛行機と潜水艦だけにしてしまおう。すれば、米国艦隊の「攻撃目標」がなくなるではないか。艦隊を持つから艦隊決戦が生起するのであり、そもそも艦隊を持たなければ米国は勝ちたくても勝てない道理となる。。。

なるほど、たしかに巧みな道理ではある。しかし、本書は戦後に書かれた。果たして、戦中に、源田がそこまで深謀遠慮をもって航空主兵を唱えていたものかどうか?
むしろ、源田は、海軍に入ると決めたときから「飛行機だ」と思い定めていたぐらい、飛行機マニアだったのであり、単にひいきの引き倒しの結果の航空主兵論だったと思える。

また、戦闘機に関しても、いわゆる「格闘戦重視」の思想は源田が主唱したものである。これは、源田と同期の柴田が批判するところとなり、とうとう「模擬空戦」で決着をつけることになった。
これは、本書に記述がある。
最初は、源田の軽戦が勝ちを収める。柴田のもってきた陸軍の重戦は、ケツに食いつかれてあっさりと負けてしまう。
ところが、柴田側の歴戦搭乗員が再戦を希望する。彼がとった作戦は、いわゆる「一撃離脱」であった。つっこみ速度に劣る源田の戦闘機は、これを躱せずに負けたように思われた。
しかし、勝ったはずの柴田側の搭乗員は、複雑な表情を浮かべる。たしかに一撃離脱で有利な位置をとったものの、そこで効果的な射線を得たとは、どうにも判断がつかなかったからだ。。。

以上の文章は、結局最後まで格闘戦にこだわった源田の「言い訳」にも見える。
実際の戦史では、この通りの一撃離脱戦法によって、日本が誇る零戦の優位が失われ、日本は敗色を濃くしていく。「射線に自信がもてない」欠陥を、米軍は機体の数の多さと、大馬力エンジンのおかげで機銃を山ほど積むことで解消した。
物量に優れる米軍の前に、日本の一騎打ち的思想は完敗したのである。

評価は☆。源田の自己主張の強い性格がかいま見える著書で、興味深い。

なお、NHKETV特集零戦に欠陥アリ」で「源田は、航空機メーカーの乗員保護の意見を一蹴した」と「人命軽視」の権化のように描かれているが、それは誤りである。
なにがなんでも旧軍は「人命軽視」にしとかなきゃすまんのが、我が国営放送なのだ。
本書の中で、源田は「格闘戦で後方から射撃した場合に、入射角が浅くて機銃弾が多く跳弾して効果が得られない場合が多かった」ことから「炸裂弾が必要だと考えた」と述べている。
これが、零戦に二○ミリ機銃が積まれた原因なのである。
日本海軍は、伝統的に「自己の装備する砲に抗甚する防護」を求めるのであるが、もしも二○ミリ機銃を考えた場合、これに対する防弾版を戦闘機に積むことは不可能である。重すぎて、ヨタヨタとしか飛べなくなるのだ。いくら防弾板があっても、そんな飛行機は標的でしかない。
防弾板を装備した挙げ句に、機体が撃墜されてしまったら、やっぱり「人命軽視」と言うんだろうな(苦笑)
軽快な運動性で「そもそも、敵弾を食らわぬ」ことを求めたのが零戦である。当時の世界の艦上機としては一線の288ノットの速度を持ちながらも、軽快な運動性を誇った理由は、単に戦闘力を求めたわけでなく強力なエンジンのない日本における防御策であった。
乗員のための防弾版を装備しても全く運動性の変わらない、強力なエンジンをもつ米軍機の真似は、当時の日本の航空機ではできなかったのである。

当時、日本はドイツのメッサーシュミットが装備した液冷エンジンDB601のライセンス生産を行った。ところが、このエンジンの長いクランク軸が、どうしてもうまくつくれない。
ドイツに相談したら、「なんだ、そんな簡単なことか。見せてやる」と言われ、技術者がドイツまで見学に行った。
ダイムラーの工場に行った一行は驚いた。冷間鍛造で、クランク軸をドイツは一発でぶち抜いて創っていた。30トンのプレス機など、そもそも日本にはなかった。
ドイツ人の工場長に「ほら、どこが難しいんだい?」と聞かれた一行には、言葉もなかったのである。

そんな生産技術レベルで、日本は英米と戦端を開いたのである。
さんざんな敗戦の怨念は、戦後、日本の世界一といえる「生産技術」「電子技術」を生み出した、と私は見ている。
これら技術は、戦前戦中の日本が苦手とした技術ばかりなのである。
今の基準で昔をつかまえて、文句を言うことも間違いだが、それを国営放送で垂れ流すのは、輪をかけた間違いと言うべきなのではあるまいか。