Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

通貨が堕落するとき

「通貨が堕落するとき」木村剛

今やアベノミクスで、久しぶりの株高になり、明るい雰囲気になっている。
円安効果もあり、輸出企業は業績回復を見越して、定昇維持となった。

「なんだ、こんなに効果があるのなら、今までの政権は何をやっていたんだ?やっぱり民主党は馬鹿だった」
という話になりそうであるが、実はそれには理由がある。
いや、民主党が馬鹿なのは本当だが(苦笑)しかし、歴代政権がアベノミクス的路線を取らなかったのには、相応の理由があるのだ、ということである。
それが「通貨の堕落」の懸念であって、本書に書かれている通りなのである。

木村剛氏は、かつて竹中平蔵氏の懐刀と呼ばれ、金融改革を席巻。自ら新銀行を立ち上げ、その銀行が自分が創設した金融庁の検査忌避によって摘発、有罪判決となる。
右からも左からも「小泉竹中路線の象徴」「日本を米国にしようとした国賊」ということで、今や「落ちた偶像」であろう。
しかし、本書を読むと歴然とする。毀誉褒貶はともかく、日銀出身の優秀な金融専門家だったことだけは、間違いない。
彼の政策的な識見と、その後の銀行経営からの転落という側面は、実は同じところに原因がある、と私は思う。

本書のすべて仮称で書かれているが、バブル崩壊から多額の公的資金投入による金融界の立て直し(それが実質、単なる延命策の破綻)までを克明に記した「小説」である。
なぜドキュメンタリーでないか、といえば、個々の登場人物のせりふややり取りが、すべて木村氏による想像だからである。
そういう意味で、本書は「歴史小説」と同じ手法で書かれている。
年表に載った事実と、個々の報道された事象を、著者の想像力で関連付けた。
それは、公的資金投入までの「山一証券破たん」「北海道拓殖銀行破たん」「日本長期信用銀行外資売却による債権(という禿鷹ファンドへやられた愚策)」について、その経過を実にリアルな筆致で描いた。
年々増加する国債と、金融界の不良債権により、いわゆる「護送船団方式」が維持できなくなったとみた大蔵省と日銀は、公的資金投入への道筋をつけるため、まず山一証券を破綻させる。
その際の日銀特融などは、まったくでたらめもいいところであった。
大蔵省は「インターバンクはつぶさない、証券はインターバンクではない」と苦しい言い訳をする。その直後に、そのインターバンクを見放す形で拓銀が破たん。
これで、すっかり怖気づいた小渕政権は、ペイオフを延期するとともに利下げの余地がない中で量的緩和策を打ち出す。
しかし、単に量的緩和を行ったら、国債金利が上がる。そうなったら、日本の財政が持たない。
そこで、当時、大量の償還を迎えていた郵貯の資金を支えるという名目で、日銀に市中での国債買取をさせることを決断する。
マスコミ向けには「国債の直接引き当てはさせない」と声明するのだが、金融のプロは実質の日銀による国債引き受けだと判断する。
大量の公的資金の投入と、一向に進まない日本の財政に対して、国債の格下げが次々に行われる。
このままだとインフレになってしまうが、しかし、このタイミングで利上げをすると、せっかく上昇し始めた景気を冷やすことになる。
それゆえ、日銀は利上げのタイミングを躊躇する。
そうしている間に、ついにインフレが猛烈にすすみはじめ、物価高による不況がはじまり、日本はおそるべきスタグフレーションに陥る。
解決策を持たない(財政状況が悪くて、選択肢がない)政府は、これを傍観。よって、事態はハイパーインフレに至る。
そこでようやく、日本の人件費が国際比較で安くなり、多額の国債も紙屑同然となり、日本の財政はリセットされる。
それこそが、大蔵と日銀の真の狙いだった、、、というのがオチなのである。

大胆な金融緩和は、常にインフレの危険をはらむ。
それを「調整インフレ」年率2%程度に落ち着かせる、というのがアベノミクスの狙いである。
たしかに、経済がうまく回っている国は多少インフレであるから、着地点としては良い。
しかしながら、「経済が良かったので、インフレ2%に落ち着いた」というのと「2%のインフレを実現したら、経済が良くなる」は、論理学でいう対偶ではない。
逆必ずしも真ならず。もしも失敗し、大量の資金という薪の上でインフレという炎が燃え始めたら、大火事に至る可能性があるのである。
本書のストーリーは、アベノミクスが失敗した場合の予言である。
そうならないことを祈るものである。

本書の中で、日銀幹部がつめられる場面がある。
金融政策によって経済が良くなることはない、いくら量的緩和をしても資金需要がないのであれば、短資会社の日銀当座に数字が積みあがるだけだ、と説明する日銀幹部に、日経新聞の記者がいう。
「では、本当に経済を回復させるものは何か」
日銀幹部が答える。
「それは、新しいビジネスそのものです」
すると、記者が言う。
「それなら、あなたがベンチャーをやりなさいよ。そんなに優秀で、能力があるなら、なんで日銀にいるのか?自分でビジネスをやったらいいじゃないか」
日銀幹部は、いや、それは私の任ではないというと、記者は言う。
「あんたらはいつもそうだ。自分たちが偉い、優秀だと言いながら、リスクのあるビジネスは民間がやれという。自分たちは、高給をもらって、実際の経済を批判しているだけじゃないか」
日銀幹部は言葉を失う。

おそらく、この記者の批判は、元日銀幹部だった木村氏自身に向けられたものでもあったろう。
そんなに優秀なら、実際にベンチャーをやれよ。で、彼はやった。
しかし、彼が目指したミドルリスク、ミドルリターンの金融市場など、日本にはなかった。
日本の中小企業は保証協会をはじめとする公的金融が市場を押さえているので、彼の銀行に行く顧客は公的金融のおりない客=ハイリスク客ばかりになった。
ハイリスク客を相手にするには、それなりの回収スキームを持たねばならない。だから、商工ファンドへの迂回融資へのめり込んだ。。。

私は、木村氏は、国策と自分の信念を一致させようとして、ついに現実というジャングルに飲み込まれた人に思える。
そういう意味では、純粋な人だったのだと思う。なまじ偉そうな評論家にとどまっておれば、ああいうことはなかった。
彼の才能を惜しむ。
そう、現実には、優秀な人が成功するとは限らないのだ。成功した人を、むしろ優秀と呼ぶのだが、それは実は運も大いに関係している。
世間は、それを「運も実力のうち」と呼ぶ。
戦争と同じなのである。敗者に与えられるものは、何もない。それが現実なのである。