Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

密室大阪城


冒頭、燃え上がる大阪城で当主、豊臣秀頼が「我ハ少シマドロミテ、其後切腹スベシ」といい、横になる有様からはじまる。
その後、筆者は言う。
秀頼は、切腹を前にして、なお一眠りをするだけの豪胆な男であった、と。
これだけで、従来の司馬史観による「ひ弱な男、秀頼」像をひっくり返すに充分である。

秀頼は、決して暗愚な武将ではなく、それどころか、正しく徳川家の力を見抜き、なんとか大名家として存続しようと心を砕く。
政略結婚した千姫との仲もよい。
しかし、残念ながら、せっかく懐妊した子供は、千姫が何者かによって石段から転落する事件があって流産してしまう。
徳川にとっても、淀殿にとっても、豊臣徳川の両方の血を引く子供は目障りであった。

淀殿は気位が高く、ヒステリー気質で、とにかく豊臣最興だけを念じている。
そのため、かつての子飼いの前田、福島、加藤などに誘いの密書を出したりする。
片桐且元は、愚行だと言って苦い顔をするが、秀頼もまったく同感である。
しかし、場内の淀殿派、秀頼派の対立は深く、秀頼の苦心も淀殿には理解されない。

やがて、方広寺鐘銘事件が起き、淀殿は、徳川との一戦をしようと言い出す。
困った秀頼は、勝ち目がないことを知っており、片桐に相談する。
片桐の策は、やむなく、徳川と一戦。そのまま大阪城によって冬まで耐え忍び、朝廷の介入を待って勅命講和しようというものだった。
勅命で講和すれば、再戦はできず、豊臣家は安泰となるであろう。
この策のため、間諜として片桐は城外に退去することになった。
秀頼はこれを認めて、そのかわり、自分の出生の秘密を教えてほしいという。
自分の父は、秀吉ではなくて、実は大野治長または石田三成ではないのか?
片桐は「天地神明に誓って」秀吉の子であると言い残す。

やがて、大阪冬の陣
味方の大名家はひとつもなかったが、秀頼は見事な大将振りで、徳川勢を引き受ける。
難攻不落。そのうちに、冬が近づく。
徳川に与した片桐は、連日、淀殿のいる天守閣を砲撃。
秀頼が心待ちにする勅命和議はできない。
やがて、徳川と、城の惣構えを破却する条件で和議ができたと淀殿は知らせる。
秀頼は激怒し、これを却下したが、とき、既に遅かった。
戦のあとで、片桐は、淀殿の講和策があるために、勅命ができず、それで淀殿を狙って砲撃したが狙撃しそこなった、と告白を受ける。
秀頼は、それを受けて入れて、やがてくる破滅を覚悟した。。。


世間に名高い「大阪の陣」だが、司馬遼太郎以来、秀頼といえば「素質は良いが、淀殿に甘やかされて育ったお坊ちゃん」のイメージがあった。
しかしながら、史料には、確かに大阪城内において「淀殿派」と「秀頼派」に分かれていたとするものがある。
秀頼は、暗愚の大将ではなかった。

このような「秀頼実は優秀」説の草分けだと思うのが、星新一「城の中の人」である。
星新一は、自分が出不精であることから「生涯、城内から一歩もでなかった人」として、秀頼を描いた。
その秀頼は、実はかなり英明で、ただ、あまりにも父祖からついだものが大きく、呻吟するのである。
これは、星新一自身が、星製薬という大会社をついで立派につぶした(苦笑)ことからきている、と思われる。

その路線が本書にも見て取れる。
「密室大阪城」は、現代版「城の中の人」であり、星新一安倍龍太郎は父親が偉大だという点でも共通した作家なのである。

評価は☆☆。
最近では、よく「二世はダメ」なんていう。
しかし、である。親が残したものが大きいと、子も苦労するのだ。二世ダメ説は成り立たないことも多い。

さて、豊臣家だが、本書でのべる「勅命和議」説以外に、生き延びる道はあっただろうか?
私は、ごく難しかったと思う。

昭和55年に、大阪城三の丸跡から一つの骸骨が出土した。
おそらく、秀頼の骨ではないかと思われた。
その骸骨を、丁重に葬って僧が読経したところ、骸骨の目から大粒の涙があふれ出た、という。実話であるそうな。
運命と極限まで戦い続けた、一人の立派な名将のご冥福を祈るばかりである。