Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

日本史の謎は地形で解ける

「日本史の謎は地形で解ける」竹村公太郎。

この著者のシリーズ「文明・文化編」が面白かったので、こちらも購入。
国土交通省の河川局長が、地形と河川というインフラからみた歴史論である。
シリーズの中では、こちらがオリジナルのようだ。

元寇が失敗に終わった理由を、まずその「泥の地形」をあげる。
平原の国であるモンゴルでは、パオという遊牧民のテントを馬で引っ張る。その馬は、なんと20頭がかりである。
日本のどこに、20頭の馬を横に並べてひっぱれる平原があるのか?
かくて、さしもの強稈なモンゴル兵も、日本ではなすすべもなかった、ということ。
同じ戦い方では、ベトナムが挙げられている。
日本とベトナムがモンゴルに勝ったことはよく知られているが、その共通点は地形の水はけが悪い湿地であることだ。

頼朝が鎌倉に幕府を開いた理由も面白い。
当時の京都は、人口40万人を超えていたと思われるが、すでに都市インフラの限界であった。
水不足、また下水処理能力が足りないから、町は不潔で疫病がはやる。
おまけに、燃料の調達のため、近畿一帯はおろか、中国地方、中部地方の森林まで切りだしている。
伊豆育ちの頼朝には我慢のならない環境であった。
鎌倉は、背後が山、目の前の海は遠浅で、非常に守りやすい土地である。
そして、鎌倉から一足抜ければ、三浦半島から房総半島まで、船で自由に動ける。
鎌倉幕府を支えた有力御家人が三浦氏と千葉氏だから、攻守そろった土地だったわけである。

同じような論旨で、川の流域の移動という視点から「遷都」を論じる。
都市は、膨大な水を必要とする。エネルギーや物資は運べても、水を運ぶのは容易でない。
水が不足すると、住環境が悪化する。
日本の遷都の歴史をみると、大和(奈良)→京都→江戸となる。
すると、川の流域面積が増えていくのである。
江戸を支えるのは利根川と荒川、多摩川で、これらの大河があるおかげで、東京は水を確保できているわけである。
東京からの遷都が現実的でないのは(今まで、何度も首都移転構想はあったが、何もすすんでいない)ひとえに、利根川を超えるだけの流域を持つ河川が日本にないからである。
あえていえば信濃川ということになろうが、利根川、荒川、多摩川を擁する東京に勝つのは難しい。

この視点で考えると、すでに「遷都」を考えなければならない外国の首都が1つだけある。
それは北京である、というのが著者の指摘である。
北京の水不足は深刻で、さらに、ものすごい砂漠化がすぐ近くまで押し寄せてきている。
これを解決するために、中共政府は一大プロジェクト「南水北調」を行っている。
南の長江の水を、黄河まで引こうというのである。
このプロジェクトの成否が、北京の今後を決めるはずである。

評価は☆。
実に面白い本である。
当たらずといえども遠からず、といった推理になっているのは面白くて、赤穂浪士の墓が泉岳寺にあるのは、幕府が討ち入りを容認したためであり、これは吉良と徳川の塩田をめぐる領地争いの遺恨が元だとする。
領地争いの遺恨は発想の飛躍があると思うが、幕府容認説はほぼ、認められているところである。

小名木川の開削は、市川(葛西)の塩の搬入ではなく、高速軍事道路であろう、という指摘も当たっていると思う。
元禄年間に復活をみるまで、葛西の塩の搬入は江戸になく、塩はすべて上方から買っていたはずだ(座という独占カルテルがあった)。
市川の商人が家康時代のお墨付きを持ち出し「御城御用」の札を立てて江戸湾に持ち込むまで、塩の道ではなかったはずである。

地形や河川については、実は歴史家は素人である。
では、歴史家は何のプロかというと、これは古文書のプロなのである。
よって、史学は、文学部の配下になっているわけだ。遺跡の発掘をやっているのは、文科の学生であって、建築学科の学生ではないのである。

こういう異分野の専門家の意見というのも、視点が違うわけであるので、新たな発見があって面白いと思うのである。

つい先日、南水北調の東線の工事が開通した、というニュースを聞いた。
ただ、この東線は、川の高低差のために取水ポンプ頼みである上、取水地点が長江の下流なので水質が悪いのだという。
自然取水で水質のよい中央線の工事は、いまだ未完成である。

北京の行く末は、南水北調の先行きをみていれば、おのずと明らかになるだろう、と思うのである。