Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

古書店主

古書店主」マーク・プライヤー。

主人公ヒューゴーは米国大使館員。趣味が書籍収集で、パリに赴任して、セーヌ川沿いに軒を並べる古書店(ブキニスト)をのぞくことにしている。
そこで、顔なじみのブキニスト、マックスから掘り出し物の古書を購入。古い詩集で、何やら書き込みがある。
あとでわかったのだが、その書き込みをした人物は、アルチュール・ランボーだった。
古書の値段は高騰し、知り合いの代理人を通じてオークションで売ったところ、なんと1000万円を超えた。
喜んだヒューゴーは、マックスにお礼を言おうと古書店に向かう。
そこで、悪漢連中に取り囲まれたマックスが拉致されるのを目撃する。
マックスの行方を捜すヒューゴーだが、地元パリ警察は捜索になぜか不熱心である。
やがて、その背後に、古書店組合の組合長グラヴァが政治力を発揮して関与しているのを知る。
捜査を進めるマックスに、美貌のルポライター、クラウディアが協力。
そのクラウディアの父親は、古書コレクターとして高名な伯爵だった。
マックスの過去がナチ・ハンターだったことを知らされたマックスは、伯爵の秘密の過去をも知ることになる。
そして、伯爵がある事情で、高額な古書(クラウゼヴィッツ戦争論」)を購入しようとしたときの代理人が、組合長のグラヴァであった。
さらにグラヴァは、マックス以外のすべてのブキニストの店舗に買収をかけていたのである。
グラヴァは、なぜセーヌ河岸の古書店を丸ごと、抱え込もうとしているのか?
ヒューゴーは、はるばる米国から駆けつけてくれた元CIAの友人トムとともに、その真相を突き止めた。
やがてヒューゴーとトム、クラウディアは、いよいよ真犯人のアジトに踏み込むことになる。


日本で古書店街といえば神田であるが、パリのセーヌ河岸も有名である。
とはいいつつ、実は彼らは、観光客に対して絵葉書を売るのが生業だったりする。
それだと、ただの土産物屋になってしまい、彼らブキニストの既得権の範囲でなく、追い出しを受けかねない。
よって、ブキニストたちは、絵葉書の売り上げを過大に申請しないよう、あるいは当局ににらまれないよう、色々と工夫しているらしい。
ま、それはそれで。

評価は☆。
パリのブキニスト、という題材の着想はいい。
しかし、小説としては、いまいち底が浅いのである。最後のグラヴァに関するネタバレも、ああ、という感じ。
タフで活動的なアメリカ人が探偵、というのが悪くはないけど、心理のアヤみたいなものは感じられない。
惜しいなあ、と思う。

パリのブキニスト達が大事にされるのは、歴史的な経緯もある。
その昔、欧州を支配していたのは形式上、ローマ法王であった。中世が暗黒時代と言われるのは、教会が知識を独占していたからである。
学問を身に着けるためには、教会に入るしかなかった。
一般民衆は、教会で絵を見ながら神父の話を聞くしかなかった。
そこに、グーテンベルク活版印刷が登場する。一番最初に印刷されたのは聖書であった。
民衆ははじめて、神父によらずに聖書を知ることができた。すると、どうだ!?「神様は領主をつくり、王権を与え、次に民衆を作った」どこにもそんなことは書いていなかった。
王権神授説そのものが、教会と領主の「作り事」だったと、白日のもとにさらされたのである。
「聖書にそんなことは書いていない」そして、宗教改革が始まるわけである。
「知は力なり」というが、それは「教会の言うことだけを信じて生きていかなくてはいけない」世界を、まさに知が打ち破った瞬間だったのである。
民衆は知によって力を得て、教会によらずに議会をつくり、民主制が始まった。
このゆえに、出版の自由は表現の自由という形で現在に引き継がれており、出版の自由があるゆえに、その出版物を扱う書店もまた「自由」を体現する職業なのである。
だから、ローマ法王が「表現の自由にも限度がある」と述べたのに対して、ただちに英国首相が反論したわけである。
また教会という権力によって、知の独占をしようという話につながるのではないか?という連想が働くから、議会は「自由」を主張することになる。
ナチスドイツを支援したのがカトリックだというのは、少し歴史を知ると当然のように出てくる話なのだが、つまり全体主義権威主義の利害は一致する。
これに対峙するのが自由主義と民主主義。
で、全体主義は左翼、これは当然である。自由主義は経済活動においても自由を主張し、教会からの離脱を積み重ねた歴史を重視するゆえに右翼で資本主義となる。
この論理でいえば、カトリックは実は左翼ということになるのだが、それはある意味で正しい。「赤い枢機卿」は、カトリックの中で、強大な力を持っている。

我が国においては、左翼の方が憲法改正に反対する「保守派」で、右翼のほうが改正を進める「改革派」である。
で、全体主義の左翼が「表現の自由」にこだわり、なぜか右翼が統制経済を認めたりする。
右と左が混乱しているのだが、ソ連崩壊後のロシアでは共産党が「保守派」であり、改革派が「自由主義」である。
保守と革新が国によって定義が異なるのは、たいへん面白い現象であるな、と。

ま、そんなことを考えましたなあ。小説が詰まらなかったから(苦笑)