Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

ジーン マッパー

ジーン マッパー」藤井太洋早川書房版。

この著者の「ビッグデータ コネクト」が大変おもしろかったので、他のも読んでみようと思い購入。
著者のデビュー作にあたる。
amazon kindleで、電子出版の自費出版でありながら、2013年の「kindleでもっとも面白かった小説」として有名になり、ついに早川書房から増補改訂版が出版された。
つまり、電子出版経由でプロの作家になってしまった方なのである。
実力は折り紙付きといえる。
私が読んだのは、その早川書房の増補改訂版である。

舞台は2030年代で、その時代の人々は体内にチップを埋め込んで「拡張現実」というコミュニケーション手段を用いている。
互いに拡張現実空間に入れば、自分の姿をアバターとして相手に見せることができ、プレゼン資料も空間上に展開させることができる。
複数人でもアクセスできるが、当人同士が望めば密談も可能である。
主人公の林田の仕事は、蒸留作物のデザイナーである。
蒸留作物とは、遺伝子組み換え作物の究極の形で、すべての遺伝子を設計した作物である。遺伝子工学が産んだ人口植物である。
林田は、その蒸留作物に色々な刺激を与えて自由に田畑の上にデザインを作り出す作業を行っている。
この時代の農業は工業化されているから、田畑の上に作物が変色したり場合によっては蛍光したりして、企業ロゴ等を描き出すわけである。
その林田に、クライアント企業の黒川から連絡がはいる。
ベトナムの農園で、遺伝子崩壊が起きた、というのである。
遺伝子崩壊とは、植物が他の生物の影響で遺伝子が変異してしまうことである。
すべてが人口的な遺伝子の蒸留作物が天然の植物と交配することも、害虫に食われることもないはずで、林田は驚く。
その時代、すでにプログラムの増殖に耐えきれず崩壊したインターネットに潜入して、過去の植物のDNA情報をとってくるハッカーのキタムラを、林田は手配した。
キタムラと現地で落ちあい、打ち合わせをしながら、DNAの特定を行うことになる。
さっそくベトナムホーチミンに黒川とともに向かい、キタムラのオフィスを拠点に農園の現地調査をすることになった。
その農園で林田が見たものは、恐ろしいほどの数で繁殖しているバッタの群れであった。
なんとかバッタのDNAを採取することにキタムラは成功するが、そのDNAのコードを解析したところ、思わぬ真相を知ることになる。。。


たしかに、イマ風のSF小説である。
特にコンピュータのプログラミングの知識が少々と、DNAに対する基礎知識が少しあれば、非常に面白く読めてしまうと思う。
なるほど、これは確かに電子書籍でヒットしたというのもわかる。
昨今は様相が変わってきたが、amazon kindleを愛用する人は「同じ内容を読むのに、わざわざ紙の本を買い込むとスペースもとるし無駄ではないか」という合理的な人が多かった。
つまり、ITリテラシーの比較的高い層が多かったと思うのである。
IT系の仕事についている人も相当いただろう。
そのような読者層に、この小説の出した「科学による未来を、人間はどこまで信じるべきか?」というテーマは、大いに受けたのに違いないと思う。
評価は☆。
現代日本SF小説の代表作といえるのではないか、と思う。
ちょっと、和風サイバーパンク、という雰囲気もある。
とはいえ、ギブスンが「ニューロマンサー」を発表した当時とは、すでにネット環境そのものが違うので(というかニューロマンサーはインターネット登場前だよ、恐ろしい)リアルな雰囲気は本作が勝って当たり前である。
近未来の預言書的な雰囲気も似ているところがある。

おそらく、未来の人々も、本作と同じような決断をする可能性が高いと思う。
どんなにリスクがあろうと、一度出現した技術が有用なのにもかかわらず、捨てられることはない。
原子力が良い例であろう。
安全対策を講じつつ、未来を信じて技術を使っていく、という方向に、人は歩もうとするはずである。
そういう意味では、本作のラストに驚きはないし、予定調和的であるとさえ言える。

しかし一方で、本作に登場した一方の勢力のように、このような技術に全幅の信頼を置かない人々もいるはずである。
たとえテロを起こさなくても、テクノロジーに対する異議申立ては行われるし、そうあって不思議はない。
それも、技術を考えた上での、もうひとつの結論なのである。

残念ながら、現実の我々は「良いとこ取り」は出来ないのである。
リスクを覚悟しながら利益を追い求めるか、あるいは不便に甘んじるか、しかない。
しかし、多数の人は、もう少し賢明かつ現実的な行動をとる。
すなわち、利便は享受しつつ、そのくせ文句をつけて批判がましい態度をとることである。
じゃあ不便を我慢せよ、と言われると、モゴモゴと口ごもってしまうのである。根性なしなのだ。

若いときは、このような態度を「自己矛盾に気付かない愚者もしくは卑怯」だと考えて、忌避したものである。
しかし、私も年を食ったので、そのような純粋な考えは持たないことにした。
すなわち「いけしゃあしゃあと、厚かましく生きる」のが、どうも良いのではないか、とふと気がついたのである。
そう考えたら、ずいぶん楽である。

今更、どうこう言ってみたって、はじまらんではないか。
どうせ、口から出まかせ、出放題。だって、そんな人間なんだから(苦笑)