Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

超訳 資本論


私は経済学を専攻したことはないので、経済学といえばマル経と近経があることくらいしか知らない門外漢である。
その後のソ連崩壊(と毛沢東の失敗やポルポトチャウシェスクやらその他有象無象がみんな失敗)により、マル経は「そんなのもあったね」状態である。
しかし、この本が出たときは、それなりに売れた。
何しろ、世の中は格差拡大、ワープアの増加で、蟹工船が売れたりしたわけだ。
そりゃあマルクスだって、少し息を吹き返すってものだろう。

そういうわけで、ビンボー人の端くれとして、古本で購入。
見慣れない言葉が続出するのに手を焼きながら、なんとか読了。
超訳なんだけど、それでも、ズブの素人には、新書なのに手強いという感想である。

剰余価値論について、概略を知っていたので、その確認。
使用価値と、交換価値が違うことがスタートラインにあって、労働者という商品にそれが適用される。
そこで剰余価値が生まれて、それが資本家に搾取される、というのがまず基本。(超訳を、さらにサルがサル並に理解したところ)。
私見では、資本論というのが、経済学の理論書の装いを持ちながら、実はアジテーション疑似科学かもしれない)なんだなあ、と感じたところ。

さあ、こいつをきっかけに資本論を読むぞ!とは、思わなかった(苦笑)。
しかし、「こんな見方もできるよね」レベルで、参考になったのは事実である。
☆かな。
マルクス主義の外郭を、理解するのには役立つと思った。


ソ連をはじめとする社会主義国家で、マルクス主義が失敗したのは「需要が計画できなかった」からである。
需要が計画できないので、当然、供給がおかしくなる。
自由な市場による調整ができないため、あちこちで、モノ不足と不良在庫が積み上がって経済をダメにした、と言われる。

本書を読んで感じたのは、マルクス自体も「交換価値がいくらかは、市場に出してみないとわからない」といっていることである。
商品は「いのちがけの跳躍」をして、貨幣と交換される。(つまり、売れるということ)
しかし、この説明は、商品が売れる理由を説明していない、と思う。

マルクスは、商品が「売れた」あとで、その売れた商品をつくった労働を「必要労働」と「剰余労働」に分ける。
その「剰余労働」が、平たくいえば、資本家の儲けというわけだ。
もしも、市場で売ってみて、労働者に賃金を払ったら儲けがなかったとしたら。そのときは「必要労働」はしてたけど「剰余労働」はしてなかったことになる。
市場で売ってみて、原価割れの大赤字だったら?もちろん「必要労働」もしてなかったことになるだろう。
仮に同じ労働者が、同じ労働をしていても、商品が販売された市場によって、価格は変わる。
野球の解説者が、バッターが三振したあとで「ここはバントでしたね」というのと同じである。
おいおい、三振する前に言えよ、と(笑)
市場が成立し、そこで利潤を上げている企業があるんだから、マルクスの言うとおりじゃないか、というのが、つまりは「ものの解釈の仕方」に過ぎないんじゃないか、ということである。
三振する前にバントの指示を出せないから、実際には計画経済が成り立たない理由である。
マルクスは、市場でものを売るということを、ひどく静的な現象として考えているのではないか、というのが私の感想である。
実際には「命がけの跳躍」をするのは、商品ではなくて、起業家である。
モノが売れたときに、初めて「労働」が行われたことになる。
売れなきゃ、労働もなかったことになる。
観測するまで、実体があるかどうかもわからないが、観測されたあとは、実体が「過去に遡って」あったことになる。
量子力学並の難解さで、確かに哲学と呼ぶに値する。

と、まあ、門外漢だから、こちらは気楽なものである(笑)。
でも、これを呼んだら、シュムペーターに興味が湧いてきた。実は、経済を動かしているのは「イノベーション」ではないか、という説である。
自分の実感に近いような気がする。
機会が有れば、今度はそっちを読んでみよう。