Single40'S diary

「40過ぎて独身で」の作者が、あっというまに50代を迎えたブログ

絶望の裁判所

「絶望の裁判所」瀬木比呂志。

先日、韓国の大法院(日本で言う最高裁)で「戦時徴用工の個人請求を認める」という史上例のない画期的トンデモ判決が出て大いにオノノイタのであるが(驚いた、は通り過ぎた)世の中には他山の石という言葉もある。
我が国の司法なかんづく裁判所はどうなっているか?という話ですな。
新書で激烈な批判を展開しているのが本書である。

著者自身がエリート裁判官の経歴があり、東京地裁の判事補をふりだしに(ここから既にエリートだ)大阪地裁判事、東京地裁判事、最高裁調査官を歴任している。
しかし、どうやら裁判所の水は、かなり肌にあわなかったらしい。
精神を病んだこともあったようだ。さいたま地裁判事を最期に大学の誘いに応じ、学者に転身した。
つまりは、古巣批判の書である。

本来、裁判官は独立して職責を全うし、自己の良心のみに従って判断を下すとされているのであるが、実際はそこは人間である。
裁判所内部でも出世競争はあって、大都市の判事ほど偉く、地裁長よりも高裁長のほうがエライ。
これらの人事に決定的な影響力を行使するとされているのが最高裁事務総局なのである。もちろん、そのトップには最高裁長官がいるわけだ。
で、判事も、ついつい最高裁事務総局の意向を伺いつつ、判断を下すことになりがちなのではないか、いわゆる「上」を忖度する「ヒラメ裁判官」ばかり、というわけであるな。
本書では、ちょくちょくと筆者が耳にした例をあげつつ、そのような裁判所の体質を批判している。

もちろん、単なる批判にはとどまらず、改善策の提案もしている。
それが法曹一元制度である。
これは、司法修習をパスした人たちを、そこで判事、検事、弁護士に分けるのではなくて、それぞれで適宜、その立場を入れ替える制度である。
米国などではこちらの制度であり、弁護士から判事長が選ばれたり、検事長が選ばれたりもする。これらは法曹メンバーの選挙による。
なので、裁判で「名を上げる」のが大事で、大きくて有名な事件を手がける必要があるわけである。
ついでにいえば、弁護士で大儲けしている人は、安月給の判事や検事になりたいわけがないので辞退することになる。
まあ、儲かっている人が数年間やることもあるが、それはキリスト教らしい奉仕の精神によるらしい。

日本では、判事になると一生判事であるから、その中での出世を目指すと、最高裁事務総局の意向を忖度するしかないわけですな。
判事を辞めて弁護士になってしまったら、もう二度と判事には戻れない(例外はあるが)片道切符である。
官僚の出世レースと同じ風景になるわけですなあ。
水に合わない人が出てくるのも当然という気がする。


評価は☆。
まあまあ面白く読んだ。つまり、公平で謹厳実直なイメージの強い裁判官も、大いに人の子であるなあ、という意味である。
著者は、青法協(共産党系)系の左派人物ではないので、いわゆるブルーパージが原因ではない。
よほど体質に合わなかったのであろう、裁判所を「ソルジェニーツインの収容所群島」だとまでこき下ろしている。

しかし、である。
世界で見れば、日本の裁判所はまずまず、公平な部類に入るのではあるまいか。
隣国では法律論争に勝つよりも世論に火を付けるほうが有利なので、広告屋まがいの弁護士と世論に迎合する裁判官がのさばっているのはご覧のとおり。
中共の裁判は、およそ公平とは縁もゆかりもない(苦笑)。
カンボジアの裁判は、裁判官への賄賂が多かったほうが勝訴する。相手方の賄賂の倍額を払えば、逆転勝訴が勝ち取れる仕組みである。
ロシアの裁判はおそロシアとしか言えない。
アフリカは論じるに値せず。
つまりは、裁判に多少の公平性を期待し得るのは、アジアでは日本だけ、あとは西欧と北米程度ではないか。
世界で見れば、さほど多いとは言えないだろう。

本書が指摘したような日本の裁判所の欠点は、もちろん大いに改善の余地があるものと思う。
しかし、タイトルどおり「絶望」とまでは言えないんじゃないの、と思うわけである。
私がタイトルを付けるとしたら「イマイチの裁判所」かな。
このような環境の中でも、日本の判事は、よく頑張っているんじゃないかと思うんですがねえ。
まあ、私の乏しい経験の中から、ですけれどもね。