Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

利休の闇

「利休の闇」加藤廣

千利休が秀吉に切腹を命じられたことは有名である。
その原因としては、大徳寺山門の上に利休の木像があり、秀吉も大徳寺に行くときはその利休の足の下を通らねばならない。
天下人たる秀吉は当然、大激怒し、また利休が茶器の鑑定で巨富を得ていたのも気にくわなかったと言われている。
しかし、この説には疑問符がつきまとっているのも事実であろう。
伊達政宗豊臣秀長(秀吉の異父弟)に面会したとき「表向きの用件はこの秀長に、内々のことは利休に」相談せよ、とアドバイスしたのは有名である。
それぐらい、利休は秀吉の政権内で重きをなしていた。
その利休が、切腹に追い込まれるには、木像の件はいかにも「とってつけたふう」ではある。
また、秀吉は金銭には大らかな性格であったと思われ、利休が多少の儲けを得ていたところで、とやかく言う性格とは思えない。
そのような歴史ファンの疑問に、著者なりの回答を与えようとしたのが本書である。
ゆえに、題名の「利休の闇」は、つまりは利休切腹の理由という闇に迫ろう、という著者の宣言ということになるだろう。

物語は秀吉が織田家中で破竹の勢いで出世していた場面にはじまる。
次々と実績をあげる秀吉だが、それでも家中での扱いは軽い。
秀吉は、その原因を、自分の教養のなさにある、と考える。特に、当時流行の茶道においては、秀吉はまったくの門外漢である。
茶の飲み方ひとつも知らない、これでは馬鹿にされると考えた秀吉は、当時の最高峰の茶人、今井宗久に弟子入りを願って断られ、ついで津田宗及にも断られる。
「山猿に茶など片腹いたい」と思われてしまったわけである。
そこに、救いの手をさしのべたのが千利休だった。「茶の道は誰にでも開かれていなければならぬ」と考える利休は、ひそかに秀吉に茶道を教授する師匠となる。
そうするうちに本能寺の変、ついで山崎の戦いが起こる。
秀吉は、山崎の戦いの前に駆けつけた利休に、急ぎ「一夜作り」の茶室を設けるように依頼した。出陣前に、最後になるかもしれない茶を仲間の諸将と喫するためである。
利休はこの依頼にこたえ、寺の離れをそのまま移築し、三乗に縮め、入り口の扉を設ける時間はなかったので小さな出入り口をつくった。これが「にじり口」である。
秀吉はこれを賞し、茶を飲んだあと、見事山崎で勝利して天下人となる足がかりをつかんだ。
そんなことから、利休も秀吉政権内で重きをなすようになっていったのである。

しかし、やがて、その茶自体で、利休と秀吉の考え方の違いが明らかになっていく。
利休の茶は「侘び茶」であり、そのために色々な制約を設ける。
最初は「面倒くさいほうが、遊びというものは、面白いものなのです」という利休の説明に納得していた秀吉だが、徐々に違和感を抱き始める。
秀吉が利休邸に朝顔を見物に行くと、庭の朝顔が一輪もない。けげんに思って茶室に入ると、そこに一輪だけの朝顔が活けていった。
利休の「凝縮の美」だが、秀吉は反感を持つ。「花は野にあるようにいけよ、というたのは利休、そなたではないか!これはおかしいぞ」
にじり口」にしても「あれは戦場での苦肉の策である。ほんらい、客人に狭い入り口で窮屈な思いをさせるなど、もってのほか」と考える。
秀吉は、もっと自由闊達な茶を求めた。
その秀吉の思いが北野大茶会につながる。身分の貴賤を問わず、皆思い思いに自由に茶を点てよ、と野点を進めたのである。
野点は難しい、という利休に対するアンチテーゼであった。

茶道に対する両者の考え方の相違は、だんだんと大きくなっていく。
そこに、九十九茄子の茶入れが現れる。名品として名高い茶入れであるが、本能寺の変で焼失したと思われていた。
わざわざ「似たり」と注釈付きで、本物の姿に似せた模造品ですよ、という品物を見た利休は「これは本物だ」と看破する。
どうして、本能寺でなくなった九十九茄子の茶入れを秀吉が秘蔵しているのか?
利休は、ある可能性に思い至る。
やがて、秀吉の耳に、利休が九十九茄子を本物だと言っている、という噂が耳に入る。限界であった。
ついには、秀吉は、かつての自分の茶の師匠である利休に切腹を命じることとなる。
利休の首は一条戻り橋にさらされ、かつて大徳寺山門に飾られてた木像の足がその首を踏むような形で置かれてたという。


評価は☆☆。
なかなか面白い。
今までの利休切腹を扱った書というのは「利休善玉」説が強い。
もちろん、利休の始めた千家の茶道の愛好者は今でも多いわけだし、その宗家も存続している。
一方で、秀吉の一族は滅んだ。
どうしても、後世の物書きが書けば、利休寄りの話になりがちである。
そこを敢えて「秀吉の立場」で物語を書いて見せた。なるほどなあ、という思いがする。
無教養で身分も卑しかった秀吉が求めたのは、決まり事が多い茶道ではなかった。もっと自由闊達な茶だっただろう。
利休が鑑定したから竹の茶入れが高額になるよりは、黄金でできているから高価だというほうが簡明である。
もちろん、当時の事情として、夜間の照明が乏しい中で、光り輝く黄金がもてなしとしても価値があったことも見逃せない。なにも「見栄」ばかりではないのである。
今の基準で考えてはいけない面もあるだろう。
何よりも、秀吉と利休の対立が、茶道という「芸術上の対立」が原因だったという考え方は、なかなか良いと思うのである。
殺人というと、まずカネに女、というのが昨今の決まりである。
せめて歴史に名を残す偉人であれば、そういう動機ではなかったと思いたいではないか。
こういう「小説」は、大いに良いなあ、と思う次第ですねえ。