Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

利休にたずねよ


市川海老蔵主演で映画化されたそうだが、私はそのことを寡聞にしてまったく知らなかった。
知らなくても仕方がない。この映画は記録的な大コケだったそうである。
反日韓流映画」とまでこき下ろされたそうだから、まあ、日韓関係をつらつら顧みるに、ヒットする可能性はなかったんでしょうなあ。

物語は、冒頭の利休の切腹シーンから始まる。
使者たちは、口々に「一言わびれば、太閤は助命するであろう。そうなされ」と説く。
しかし、利休は「謝ることなどない」と意地を張りとおして切腹
その秀吉と利休の確執を手繰る形で、物語はだんだんと過去にさかのぼる。
語り手は、利休本人だったり、妻の宗恩だったり、秀吉だったり、石田三成だったり僧だったりする。
その中で、利休の「美」に対する意識が、秀吉の天下取りの欲望(妄執ともいえるだろう)すら上回るものであったということが語られていく。
そして、そのきっかけとして描かれるのが、利休19歳のとき、朝鮮国から海賊に攫われて奴隷として売られてきた美姫に同情して助けようとし、追っ手に捕まって心中を決意するも、姫だけ毒を飲み、自分はあとを追いきれなかったという負い目であることが描かれる。
利休は死ぬのが怖くなったのである。
そこに、弟子入りした竹野紹鴎の侘茶に、どうしても断ち切れぬ生の息吹を付け加えていく利休の茶が生まれたという話である。

心理劇として卓抜であり、小説として面白い。

本書が映画化のおりに批判を受けた主な点は、時代考証の甘さである。
・利休が茶に目覚めるきっかけになった朝鮮国の姫が彩色の韓服を来ている。当時は、儒教を重んじる朝鮮は、みな白衣のはずである。
・この姫からもらった緑釉の香入れを大事に利休が持っているが、当時の香入れが珍重されることはない。
・当時の日本人が朝鮮人をさらってきて、奴隷として売買することはない。当時の日本人は奴隷売買禁止であり、これに反したキリスト教を秀吉自身が禁止している
・当時の朝鮮に茶道はなく、抹茶を飲む習慣もない。
といったことである。

これらの時代考証の欠陥は、たしかに、綿密な時代考証で高名な作者らしくない失敗で、映画化を狙って書き飛ばした駄作、という非難を受けるもとになった。

ただ、そうは言っても小説なのである。
小説とは何か?基本的に「絵空事」なのである。ありていに言えば、口から出まかせなのである。
時代小説で、たとえばいくら司馬がそれらしく描いた小説だろうとも、やっぱりそれは創作なのである。
創作とは何か?もちろん、絵空事なのだ。

だから、小説は、面白ければそれでよいのである。
小説は小説である。歴史の教科書でもなければ、大説でもないのである。
時代考証が甘いから駄作だとは言えない。面白ければ、それなりに評価されねばならない。
ただし、ジャンルが時代小説なので、あまりにも時代考証が外れていると、それが興をそぐ。
ジャンルをSF小説にしてしまえば(あるいはラノベか)それでいいだろう。

評価は☆。
充分に、面白い小説である。
ただし、茶道を本格的にやっている人は、反発するでしょうな。
それは、たとえば日蓮を小説化した場合でも、日蓮宗創価学会の人が感じることと同じことである。

まあ、しょせんは「つくりごと」である。
あまり狭量になっても、この世を楽しむことはできませんぞ。
生きていてこその面白さ、何も自分から世間をつまらなくしなくても良いではないかね。