昨日は、親戚が手術をすることになり、自分も家族の一人として立会いをした。
昨今の病院は昔とは違う。
まず、同居の家族以外には病状の説明がない。個人のプライバシーと言われれば、それはそうだろうと思う。
私は同居家族から話を聞いていたので、内容を理解していた。
今の時代、同居家族といっても一人だけの場合も多いわけで、そうすると、ずっと「家族控室」という殺風景なベンチが並んでいるだけの部屋にずっといなくてはならない。
それでは食事もままならないだろうということで、自分も立会いをした。
まあ、その程度しかお役には立てない。
そうするうちに、ひょっこりと、十数年ぶりに叔父さんがやってきた。心配しているのである。この叔父さんご自身も最近体調がすぐれないのだが、それでも、病院まで、慣れないバスに乗ってやってきてくれた。
看護師さんに病状を聞こうとするが、上記の理由で教えてくれない。叔父さんはわけがわからず、当惑している。最近の事情を高齢者に理解しろと言うのは難しい。
自分が代わって病状を小さな声で話す。
手術は文字通り、まる1日かかる大手術だった。幸いにうまくいったらしい。
しかし、もちろん、まだICUに入ったままである。目覚めるのはしばらく後になるだろう。
家族控室にいても当然することもなく、持参した文庫を読み、時々スマホでメールをチェックするくらい。
しかし、逆に途中で呼び出しでも来たら大変である。ひたすら無事を祈るしかない。
つくづくと思った。
自分の年令を考えても、いずれ、このようになる日だって、そんなに遠くないかもしれない。今のうちに、やりたいことがあればやっておくべきなんだなあ、と。
健康の価値というのは、やりたいことをできるという担保にあるわけだろう。
いくら長生きしたとしても、健康寿命というのは別であるし。
色々と考えた日でありました。