Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

たとえ天が墜ちようとも

「たとえ天が墜ちようとも」アレン・エスケス。

物語の冒頭、高級住宅街の中のゴミ捨て場の路地で、女性の死体が発見される。被害者は刑事弁護士プルイットの妻で、財産家で有名だった。
刑事マックスは現場に駆けつけ、捜査を開始する。調べると、プルイットと妻の間には婚前契約があり、二人が離婚するとプルイットには何も残らないが、妻が死亡した場合にはプルイットに財産が相続されることがわかった。
さらに、近隣の聞き込みをすると、事件の夜に、赤のセダンがプルイットの自宅前に止まり、そこからプルイット本人が出てきたと向かいの御婦人が証言する。
当日、プルイットはシカゴまで出張に出かけていたが、会場から夜を徹して車を走らせれば、夜中に到着して犯行を行い、朝までに戻ることは可能だ。
マックスはプルイットを逮捕する。
一方、自分が疑われていると感じていたプルイットは、旧友のサンデン教授に自分の弁護を依頼する。サンデン教授は地元の法学教授だが、弁護士登録はある。しかし、長い間法廷には立っていない。
普段なら依頼を受けないサンデン教授だが、旧友のプルイットのために弁護を引き受けることにした。
プルイットは保釈が認められず、収監されたまま、法廷で刑事マックスとサンデン教授が対決することになる。
刑事側の証拠は状況証拠ばかりで、決定的な証拠は、夜中にプルイットを見たという婦人の証言しか無い。
ところが、証人として出廷した婦人は、今よくよく考えたら、プルイットではなかったと思うと言い出してしまう。
検察側は窮地に立たされるが、弁護側の予定も狂ってしまい、裁判は誰にも予想がつかなくなる。
やがて、陪審の出した結論は、プルイット有罪であった。
ところが、抗告の準備を進めていたサンデン教授のもとに、検事から急ぎの電話がかかってくる。なんと、被害現場のプルイットの自宅の空気穴から、血まみれの毛布とコンドームが発見されたというのである。
サンデン教授は、コンドームの体液の鑑定をするように検察に迫るが、検察は受理しない。プルイット婦人は浮気をしていた、それを怒ったプルイットが婦人を殺したのだと主張を続ける。
しかし、裁判長はこの重大な証拠を前にしては考えを変えざるをえないと検察を突き放す。
そして、サンデン教授はある手段で、婦人の浮気相手らしき人物のDNAを手に入れて、抗告の法廷に臨む。。。


リーガルサスペンス(法廷もの)であるが、冒頭から刑事側と弁護側のそれぞれの動きが交互に描かれて、迫真の法廷劇へとなだれ込む。
ずっとハラハラ・ドキドキの連続である。
シェイクスピア以来、法廷ものは物語の典型だと言われるわけだが、まさにそのとおりである。最後のドンデン返しには「あっ」と唸ってしまう。
評価は☆☆。
これはなかなかの作品である。

表題の「たとえ天が墜ちようとも」というのは、向こうの法律の世界でのことわざであるらしい。
「たとえ、天が墜ちようとも」正義を実行しなければならない、という意味なのだそうだ。
本書では、この台詞を、サンデン教授は2回言うことになる。それぞれ、まったく違う立場に立たされたときなのだが、いずれも自分の親しい友人を正義のために失うときのセリフである。
この言葉の重さが、本書を貫くテーマになっている。

よく我が国の裁判で「なんで、こんなやつの弁護をするのか」と弁護士を責める論調が時折見られる。
これは、とんでもないことである。
検察側と弁護側がお互いに忖度なし、ギリギリでやりあって、はじめて「正義」が現れるというのが裁判の仕組みである。検察側は「検察側の正義」を体現するのだが、弁護側は「弁護側の正義」を体現する。正義は、立場によって違うからである。
もし、弁護側が検察側に阿って「まったく、とんでもないやつでございます、仰せのとおりです」などと繰り返すとしたら、それは裁判とは言わない。
自分の立場で「こっちに正義がある」ように見えても、世の中の仕組みはそれとは別である。
自明の理だと思うのだが、こんなことであっても、自分の正義を信じて疑わない人に納得させるのは難しい。
一番困難なことは、他人を動かすことであるとつくづく思う次第である。