Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

戦争反対について

誰でも、戦争反対だ。戦争は恐ろしい。この「戦争反対」について考えてみた。

みんな悪いと思っている戦争が、なぜ起こるのか?
これは、簡単に申せば「国益の相反」が2国以上の国家間で発生するからである。日本国憲法9条の「国際紛争を解決する手段としての戦争」という表現は正確であって、複数国間で国益の相反状態が起こり、その状態を解決するときの手段として、最終的に用いられるのが戦争である。クラウゼヴィッツの指摘したように、戦争そのものは外交の極限的手段と言って良い。
すなわち、戦争の勝利によって得られる国益が、戦争そのもののコスト(国民と財産の喪失)を上回ると判断された場合に、戦争が起こる。(敗戦を前提で戦争しない)指導者が戦争マニアだったり、血に飢えた狂人であったために戦争が起こるわけではない。(もっとも、終戦後、戦勝国国益から目をそらす目的で、敗戦国の指導者を吉外扱いするのは有効な方法ではある)

ここで、戦争防止策を考えると、いくつかの方法を考えつくことになる。

手段1)前提である国家をなくす。すなわち「国益」が消滅するので、戦争理由も消滅する。ただし、内戦(無政府状態)が代わりに発生することが予測されるであろう。軍閥(私兵)が発生するだろう。

手段2)戦勝国をなくす。すなわち、戦勝しても回収不可能なコストを戦争にかけさせ、双方の国家が存在できないようにしてしまう。冷戦時代の米ソがこのケースであって、戦争すれば実質上勝者はなくなるので、戦争が起こらない。ただし、代理戦争(朝鮮、ベトナムなど)の発生までを防げない弱点がある。

手段3)戦勝国国益を失わせる。すなわち、戦争勝利した国に、なんの得もなければ戦争は起きないことになる。そのためには、戦後処理で戦勝国のメリットを喪失させることが必要になる。限定戦争において有効な考え方である。

もっとも、手段2と手段3は究極的には一致可能であるけれど。
つまり、戦後処理不可能なほどの状態に、国家がおかれてしまえば、手段2と3の違いはないから。

核兵器の出現は、戦争を決定的なものと局地的なものに分けることになった。
かつて日本がインドの核武装を非難したときに、インドの回答はこうであったと記憶している。「貴国が核の惨禍に遭い、核兵器に反対される気持ちはよくわかります。しかし、もし貴国にも核兵器があれば、そもそも核で攻撃されることはなかったのではないでしょうか?」
すなわち、決定的な戦争においては、皮肉なことに核が抑止力になってしまう、という主張である。
被爆国の感情としては受け入れがたいものがあるが、一方で長く実績があるのも事実である。

最近の戦争は、核を使わない限定的、局地的な戦争がかえって増えている。
全面戦争でなく「武力紛争」と呼ばれるたぐいのものだ。
これを防ぐには、やはり戦勝国の利益を戦後処理において認めない以外に、方法がないのではないだろうか?「勝てば得がある」のでは、戦争は必ず起こるのと思うのだ。

戦争反対するならば、戦勝国に一切の利益を認めないことをロゴスは主張するのである。もちろん、同レベルで、敗戦国の利益も認めてはならない。ただし、一般的には敗戦国の国益自体はすでに損なわれているのであるから、大きな問題にならないだろうと思うが。

現実の戦争の戦後処理においては、戦勝国国益確保が行われる。これをどうにかする方法はない。
戦後処理自体が、次の戦争を産んでしまうことになる。
第二次大戦のドイツがそうで、第一次大戦の戦後処理が産んだ戦争が第二次大戦だと言うのは、真実をついていると思うのだ。
おそらく、イラク戦争もそうなる危険が大きい。
困ったことである。