Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

憲法違反の人権擁護法案に反対する-その2

人権擁護法案に賛成する人は、おそらく民主主義の基本がわかっていないのである。

簡単な比較をもって考えてみる。
1)英邁な独占君主によって、差別がない社会
2)衆愚政治によって、差別が根絶できない社会
のどちらをとるべきか?という思考実験である。
民主主義とは、基本的に2)を選択することなのである。

英邁な独占君主は、差別をなくし、真の平等を実現できるかもしれない。しかし、彼がもし誤れば、誰もそれを修正することはできない。そして、英邁な独裁者が続けて出現する確率も低いものである。
衆愚政治は、最悪の民主主義であり、あちこちに差別が残る悲惨な社会をつくるかもしれない。あるいは隣国と戦争になるかもしれない。しかし、仮にそれで戦争になったとして、今度は天皇の責任にしたりA級戦犯の責任にすることはできない。間違いなく、民主主義であれば、それは民衆一人一人の責任である。
どのような結果になろうとも、それは主権者である国民一人一人にかかっている体制が民主主義であって、決してよりよい社会を実現するという「結果」を目的とした制度ではないのである。
そうでなく、仮に一時は誤った方向に向かうにせよ、その責任を忌避しないで、一人一人の主権者たる国民が背負う。仮に、様々な社会の矛盾があろうとも、その政策決定の「過程」に価値をおいたのが民主主義であろう。そして、民主主義においてもっとも重要なことは、そのような「過程」が自由に語られ、議論されることでなくてはならない。そうでなければ、その民主主義は独占君主制度と等しくなってしまうからだ。
ゆえに、民主主義と、言論の自由は相補的関係にあるはずだ。その言論が、仮に差別的な言辞を含んでいても、本来、民主主義はこれを排除してはならないはずである。

しからば、何故、人権擁護法案が必要であろうか?

文学や映画は、このような言論の自由を圧殺した、一見理想的な社会を描いたものがたくさんある。
「1984年」を見よ。
時計じかけのオレンジ」を見よ。
平和を守るため。社会体制を守るため。犯罪を撲滅するため。
様々な一見「社会的公正」のために、言論が圧殺された社会が、どうして素晴らしい社会であるものか!
有識者」に、一体何がわかるというのだろう。
有識者だって、しばしば簡単に判断を間違えるのだ。むしろ、人間はすべて間違えると思ったほうが良い。言論の自由が保障された民主主義は、最悪の場合でも「ガマンができる」制度なのである。

この最悪の法律に、明確に反対するものである。