Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

ヒロシマについて

*ここのところ、体調が思わしくなく、文章がよくありません。
吟味が足りません。お許しください。

今年も、TVでヒロシマの追悼式典を見た。
折しも、60周年であるから、いろいろな催しがあったけど、しかし、私には全く説得力を欠いた、年々風化する惰性の儀式(=セレモニー)としか見えなかった。

それは、つまり。
「自分だけ被害者づらするな。おまえらは加害者ではないか」
「原爆でなければ、人が殺されても良いのか。南京30万人はどうした?ヒロシマの方が少ないぞ」
「原爆のおかげで、アジアの民がそれ以上死なずに済んだのだ、よかったのだ」
という近隣諸国(と称する勢力)に対して、全くなんら有効な反論をなしえてこなかったからだ。
今年も、実はそのような論調は海外各マスコミで繰り返されたのである。
「あやまちはくりかえしませぬから」という”誰が過ちをしたのか”の主語を欠いた「原爆を人類全体の過ちととらえ、未来志向で平和を希求する」姿勢は、これら批判の前に一片の反論すら行う事が出来ず、ヒロシマ反核は国際的な説得力を持っていないのが実体であろう。

議論における「ヒューマニズム」の欠如を指摘するのは、その議論においては「思考停止」のもっとも簡単な方法でしかないとの批判から逃れられない。その論法では、誰も耳を傾けてはくれない。
多く「ヒューマニズム」に依拠するヒロシマの主張は、かつて日本が三国同盟を組んだドイツのナチスによるアウシュビッツによって相対化、矮小化されている。
(日本とドイツは一緒に戦ったことすらないのに!最大の失敗はドイツと組んだことだった)

かくてヒロシマは、その反核運動の広がりにおいて、その輪を広げて世界を説得することもできず、世界の核保有の削減についても何の有効な思想的支柱を与えることなく、ただ風化していっている。
ヒロシマで殺された多くの無辜の無念を、反核運動は全く思想的に昇華することができなかった、と私は批判する。
(思想的な意味において)ヒロシマは、なんら貢献なく、実りがなかった、それが60年経った現在の結論だと、私は不遜を承知で言うのである。

かつて、私はヒロシマの犠牲者は慰霊されていないと考える、と書いた。
靖国問題と関連で論じたのだが、私は、反核という「思想」が核拡散に対して情緒的でなく思想的支柱となり得る「実り」があって、はじめて犠牲者が慰霊されたと言い得るのだと考える。現在の単なるセレモニーを見ると、たとえボランティアだろうが有名音楽家が来て演奏すれば良いPRになるから商業に来ているとしか見えない。こんなはずじゃなかったのじゃないか?
はっきり言うが、これじゃ靖国のほうがはるかに、慰霊という(宗教)行為にかなっていると見えても致し方ない。(もちろん、中には勘違いして政治的示威活動を行う罰当たりもいるけど)
民間人は靖国にお祀りもされないし(帝国軍人を祀る神社だから)、悲惨な体験は風化し、世界に広げ残すべき思想の構築には失敗した。
ヒロシマは、これから一体どうするのか?

原爆の犠牲者を悼んで、たとえば寺社を建立し、宗教行為を明白にしていたならば、まだその方が良かろうと思う。すくなくとも、同じ宗教による慰霊という共通基盤はあるだろうから。
現実に、被爆した寺院はあり、復興にあたって尽力されたところも多いが、政教分離でもあるし、そのような寺院が大きく取り上げられることもない。マスコミは、首相の靖国参拝は書き立てるが、そのような活動を大きく取り上げようとはしないのだ。
国家が寺院を顕彰してはならないわけだから、これは仕方がないのかもしれぬ。

しかしながら、今の「無宗教」と称するセレモニーの連続は、何の論理も、宗教的情熱(論理とは別の世界)ももたず、ただ気分が横溢している。気分はやがて冷め、あきられる。風化である。

どうしてこのような事態に陥ったか?

厳しい見方をさせていただく。
市民運動」という形の反核運動について、満足しているのは内輪の人間だけだ。
原水禁原水協などというコップの中の馬鹿げた争いに堕していった運動の中から、本来の市民の反核のエネルギーは空費され、ただ毎年のセレモニーが残ったと私は見る。(もっとも、この2団体の争いの経緯をみると興味深い。一方が吉外であれば、必ず応戦が起きる。なんと、自分だけが平和を唱えていてもそうならないというサンプルになっているのは皮肉である)
戦時中の「大本営発表」となんら変わらぬ活動の有様には、もはや何の期待も持てない。

思想は、それが現実の行動原理となり、その行動を支えていかなければ思想とはいえない。
たとえば、反核を言うならば、まず「核保有国家」を一切支援してはならないのではないか?
アメリカに文句を言うが、中国の核保有には一切文句をつけないとか(唖然とするが事実だ)IAEA査察を受け入れない北朝鮮に抗議しない反核運動なんぞ、矛盾以外の何者でもない。そりゃタダの「反核に名を借りた」政治運動なのである。
私は、このような活動自体が、原爆被害者を冒涜したものだと思う。勝手にそう思うだけである。

原爆とは何だったのか?
なぜ、核兵器はいけないのか?
そして、ナガサキ以降、なぜ核は使用されることなく歴史は経緯を刻んでいったのか?
今でも、核保有国が増えつつあるのはなぜか?
日本は、それを許容するのか?
保有国に対する経済支援について、いったいどう考えるのか?
そして、少なくとも、核を使用することを辞さない、と明言する国家が現実に存在することに対して、一体いかなるメッセージを表明するのか?

回答は、すべてヒロシマから出発した「思想」から出されるべきはずだろう。
教条主義で物事は解決しない。朝日新聞の言うことを信じたって無駄だ。「戦争反対、原爆反対」を叫ぶだけで終わるなら、それは原爆犠牲者に対して怠惰だという他ない。
今でも、核の問題はなくなったわけでなく、むしろ、その危険は増しているのだ。

あたらしい反核運動のあり方が、今こそ必要だと私は思う。
現状の反核団体には、偉い学者先生もジャーナリストも作家も名を連ねているが、みんなバカか怠け者ばかりだ。(民間の成果主義で考えれば当然の結論だろう。人事評価してみればいいだろう)

私は、ヒロシマの犠牲者を冒涜する意図はまったくない。私の文章力が未熟で、もしそんな風に見えるところがあれば、誠に申し訳ないことだ。
私が言いたいのは、ヒロシマを思想としてどう昇華するのか、という純粋な問いかけなのである。