Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

駒大苫小牧は優勝旗を返還すべきか---朝日新聞にききたい

駒大苫小牧が、指導者の暴力問題で揺れている。
高野連は、とりあえず「謝罪と反省」を同校に要求しているらしい。どこかの国のセリフのようである(笑)

さて、この問題だが「指導者の問題で、球児から優勝旗を取り上げるのはかわいそう」
「指導者は問題だが、だからといって球児の栄誉がおとしめられるべきではない」という意見が見られる。
つまり、「生徒」と「指導者」を分離して、「球児も被害者」なのだから保護対象だという論理である。

私は、疑問を抱く。

仮に、問題を起こしたのが指導者ではなく、球児であったとする。
その場合、まず間違いなく、優勝旗は返還されるであろうと思う。
大会前の事件を隠匿していたとなれば、なおさらであろう。

さて、ならば、部員数十名(有名校だと100名を超えるらしい)球児の中で、1名でも暴力行為があったことでもって、その他の事件に関与していない球児も処罰対象にするのは、なにゆえであるか?
普通に考えれば、それは「連帯責任」というやつなんである。
つまり、「一人の責任はみんなの責任」という、いかにも戦時中の隣組的発想だが、まぁ、それはそれでポリシーなのだろう。あの朝日新聞がスポンサー様なのである。つまり、高校球児の場合は、それでよいという判断だろう。

すなわち、今回の場合、優勝旗の返還をしないというのは「指導者は連帯責任を負わないでよろしい」ということになる。論理の帰結である。
ここで問題になるのは、実は主催者側(この場合は朝日新聞社)の主体的判断により、いかようにも責任の範囲を決めてよい点である。つまり「球児」と「指導者」を、責任の上では全く分けて扱っても良いし、同列に扱っても良い。それは主催者が、ひとつの方針のもとに決めることである。

さて、高校野球は、たしか「教育の一環」であったはずである。すなわち、球児らに「連帯責任」を負わせるよう教育指導するのは、指導者の役目である。
その本人が、連帯責任は負わぬのである。他人様に説教するが、自分はカヤの外である。
これが、酒やタバコ程度の話であれば、球児に禁止して自分がタバコを吸うのは許容し得る。
しかし、人の責任を説くやつが、自分は責任を負わぬでは「無責任な指導者」を公認推薦するようなものである。
今後、野球部指導者がどんな暴力教師だろうと、大会出場には関係しないことになる。
そういう判断を、主催者としてする、ということになる。
「悪いのは指導者、生徒は被害者」という論理とは異なる、別の問題であることは明白である。

全国高校野球大会のスポンサーは朝日新聞社である。
戦時中の「指導者の無責任」を糾弾してやまない朝日新聞が、なんで高校野球では指導者の無責任を是認するのか?どこに論理の一貫性があるのか?
とりあえず、被害者生徒宅に高名な本多勝一記者を派遣してみたらどうだろうと思うのだ。
おそらく衝撃の「事実」が続々だろう。今こそ、伝説のスター記者を起用すべきタイミングである(笑)

私が思うに、「球児」は本来、ひとくくりの固まりではないだろう。一人一人の人間だろう。自由主義的判断で言えば、一人の不祥事でみんなが出場中止になるのは不合理と言うべきである。
しかし、過去、その不合理は是認されてきた。であるなら、上記の論理は必然というべきである。

さて、どうなるのかなぁ?
私は、ことの成り行きを、興味津々で見つめているのである。