Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

靖国問題(2)

(靖国問題 高橋哲哉 続き)

私「さて、老師。それでは『歴史認識の問題』お願いします。著者は、A級戦犯分祀論は、アジア諸国の政治的妥協の産物であって、日本の植民地支配に対する歴史認識は別だ、と言っています」
老「この章は、本書の中では歯切れが悪いほうじゃ。実は、いわゆるA級戦犯という『戦争犯罪』問題と、日本の植民地支配という『歴史認識問題』を分ける、というのが、その主旨なのじゃが」
私「その、歯切れが悪い原因はなんでしょうか?」
老「もしも、日本の罪を『戦争犯罪』に限定したらどうなるかの?裁判を受けて、刑に服した。それでオシマイ、ちゃんちゃんではないか(笑)」
私「あ、話が終わってしまうわけですね。それでは薄すぎて本が出せなくなってしまいます。けれども、道義的な問題としては残るんじゃないでしょうか」
老「そうじゃの。それを言えば、そもそも、刑に服したからといって、別に現状復帰できるわけではない。死んだ人間は生き返らぬし、失われた財物は弁償したって元と同じではない。すなわち、犯罪ということに永遠に話はつかぬわけで、それを無理矢理『区切り』をつけるのが法的解決じゃ。ま、人間の知恵とは言えるがのう」
私「たしかに、そうですね。直江兼続だったと思いますが、親族を殺されたと訴える告訴人の話を聞いて、犯人を死刑に処した。しかし、告訴人は、なおも死んだ親族を返せといっておさまらない。それで、直江が『閻魔大王宛の書状』を書いて、その告訴人を斬首したという話がありました。『あとは直談判して返してもらってこい』と言ったのでしたね(笑)」
老「さよう。法は万能ではないが、しかし、ともかくも、それで『区切り』をつけるのじゃ。そうしなければ、世の中の問題はすべて永久に残ってしまうじゃろう」
私「すると、終焉しない『歴史認識の問題』とはどういうことでしょうか」
老「その本質は、法の問題であるべきものを『文学化』することじゃの。文学は、終焉しなくても良いからの(笑)言いたい放題の書き放題じゃ。高橋のレトリックを借りれば『責任という法律問題を、植民地支配という文学問題にすり替える錬金術』じゃろうな(笑)」

私「はああ。この章が、歯切れが悪い印象を受けた理由がわかりました。しかし、靖国問題が、いわば遺族感情の問題であるとすると植民地支配というふうに過去の問題を文学化した場合に、やはり葛藤を感じてしまうんですが」
老「ふうむ。そう思うかの?お前さん、ところで、いったい何人殺したのかね?」
私「滅相もない!私は、戦後の生まれでありますから、さいわい戦争に行っておりませんし。人をあやめた経験もありません」
老「なるほど、のう。それでは聞くが、いったいお前さんの『何を反省』するのだね?」
私「え?!いや、その、先祖の植民地支配を、、、ですね。。。」
老「ふうん。自分がしておらぬ事を『深い反省』でもって認識できるものかの?」
私「そう言われりゃ、そうですけれど。。。でも、私も日本人ですから。。。」
老「(にやり)そこじゃ。」
私「は?!」
老「簡単に申せば、高橋の言う『歴史認識の問題』その本質は文学なのじゃが(笑)これを認めるには『民族的一体感』を要求せねばできぬのじゃ」
私「まあ、たしかに、日本人以外には関係のない話ですからね」
老「それどころか、そもそも『国だあ!?そんなもの、オイラにゃなんの関係もないぜ、ベイベー!』というボヘミアン的スタンスの人間にも関係がないわい(笑)」
私「そりゃそうですね(苦笑)とすると、つまり高橋の『歴史認識の問題』は、自分自身が『日本人だ』という自覚がない人には、なんの効き目もない呪文ということですね」
老「そうとしか、言えまいがの」
私「高橋は、個人がその家族を追悼することは認めてるように思いますが」
老「そんなことはない。高橋は、英霊を単に『戦争の被害者』として追悼しようとしたときに、ただちに現れてくる問題、だと言っているわい。つまり、すべての日本人だという自覚がある人間は、追悼する資格がない、という結論に至るのが道理じゃ。そこまで読み取れぬ奴は、読解力不足であるぞ」
私「なるほど。しかし、その論理は、いわゆる『日本人という共通の国家意識』が前提ですよね」
老「そういうことじゃ。つまり、高橋の言う『植民地支配の問題』は、現実的には戦後日本人が圧倒的多数になってしまった現在では、いわゆる『ナショナリスト』対象でなければ受け入れられる素地がない。ナショナリスト相手に説く反ナショナリズム文学、ということかの。相手がナショナリストでなければ、この認識すら存在できぬのじゃ。まあ文学というよりは、文学的感懐と申すべきじゃろうが」
私「なにやら、自分の足を食うタコに似ておりますなあ」
老「思想的には、花見酒といって良いじゃろう。他人が持ってくる酒で盛り上がるのじゃ(笑)」

私「ひどいことを(苦笑)それにしても、その構造が見えてくると、反ナショナリズムとは何か、みたいなことを考えたくなります」
老「結論を言ってしまうと、ナショナリズムは大衆の思想じゃ。にべもないがの(苦笑)よって、反ナショナリズムは、反大衆の思想ということになる。わかりやすく言えば『エリートの思想』じゃ。本書を読めば歴然じゃが、高橋は大衆に向かって「エリートと同じになれ」と言っているに等しいのじゃ。なれと言われてなれんから、大衆なのじゃが(苦笑)」
私「私自身が『日本人である』という自覚をもてば、そのぶんだけ反省を迫られる。なんか、巧妙ですなあ」
老「そう思うのもムリはなかろう。つまり『歴史認識の問題』を一言で言えば、たとえばキリスト教や仏教の宗教指導者が、民衆を支配した方法とうり二つじゃからな。インテリによる大衆支配、一種の思想統制と言うてよい。大衆は、常に生きるだけなのじゃが、そこでいささかでも自覚を持てば、ただちに『お前は罪人だ』とやられる論理じゃ。これで、アタマを出した釘をたたくのじゃな(笑)かくて、エリートは安泰となるのじゃな」
私「巨視的には『歴史認識の問題』が、実は現在の支配階級にとっては、大衆をコントロールする道具だ、ということですね」
老「考えてもみよ。生まれた瞬間に、なにもしてないのに『お前は悪いことをした人の子孫なのだから、深い反省の認識をもて』これが部落差別と何が違うのじゃ?」
私「ははあ。本人がやってないことで、先祖との連帯責任を追及する。人権もくそもないではございませんか」
老「それこれも、現状追認のためになりふり構わぬ思想、これが哲学であるならば、曲学阿世のそしりは免れまいよ。そもそも『植民地』の定義もあやしいもんじゃ。ぶちまけると『現在』が基準じゃからの。本来は、我々は全員侵略者じゃ」
私「え?」
老「(ニヤニヤと笑って)ワシは、ネアンデルタールの末裔じゃでの。お前らクロマニヨンは、全員侵略者じゃから、謝罪して欲しいのじゃ」
私「(絶句)。。。」
老「身も蓋もないわの(苦笑)まあ、植民地議論を今やる紙幅がないし、めんどくさい(苦笑)しかし、植民地支配という歴史認識をことさら主張する場合に、それが一種の現状肯定のための思想支配の道具じゃという側面は否定できんわい。つきつめれば既得権益者、エリートの思想ということじゃ」
私「おそろしげなことを。これだから老師は危なくて。。。(ぶつぶつ)まあいいや。では次『宗教の問題』いきますか」
老「これこれ、老人をこき使うな。ゆっくりと、じゃ」(続く)