Single40'S diary

「40過ぎて独身で」の作者が、あっというまに50代を迎えたブログ

言論の自由について

最近「言論の自由」について考えることが多い。
デンマークの新聞の問題もそうだし、朝日新聞が「皇族は皇位継承については発言すべきでない」と論じたこともあった。
それで、今日は、元法哲学の徒として、法哲学から見た「言論の自由」をかなり勝手に書いてしまう。

デンマークの新聞の問題は、正直なところ、私にはわからない。すまん。

まあ、朝日新聞の問題に関する私見を述べると。
憲法には、「天皇」に関する規定はあるけど、「皇族」に関する規定はないんである。
じゃあ、なんで「皇族」が「天皇」に準じて、政治的なことに関わりをもってはいかん、という論理が出るかというと、あえて本質的なことをすっとばしてしまうと「天皇になるかもしれないから」である。
そこで。
あくまで「思考実験」として、思い切った極論として、天皇を全国民から平等に選挙で選ぶ(!不敬ですいません!!)ことにしたとしよう。おお、いかにも朝日新聞が喜びそうな提案だなぁ(笑)
この場合、全国民が「天皇になるかもしれない」わけである。そう、皇族と同じである。
すなわち、全国民が「政治に関する発言もしてはならんし、選挙権もない」ことになってしまう。今の皇族と同じで「天皇になるかもしれない」わけだから。究極の管理国家であるし、民主主義じゃないよなぁ。
(思考実験というのは、こんな具合に、実際に実験が困難な理論の検証には便利なので、自然科学で素粒子論なんかではよく使われる方法である)
これは困った事態になってしまう。どうやら、「天皇」と「天皇になるかもしれない人」は、区別して考えないと都合が悪いことになりはしませんかd(^-^)ネ!

さて、なんで「言論の自由」が大事かというと、結論から言えば「人間だから」である。
人間は「思う」生き物である。「思う」から「しゃべる」ことになる。
仮に、全国民の言論の自由憲法から削除したって、みんなが「思って」「しゃべる」のは、とめようがないのは当たり前。マサカ、全国民に「無言の行」を強制はできんじゃないか。もちろん「思うな!」といっても、ムリである。

しからば、発言の内容が「政治的であってはいかん」としてみよう。それ以外は自由でよい、と。
この場合
「最近、大根の値段が高いわねえ」も、政治的発言かもしれん。物価高は政府の無能であると糾弾してないとは言えないぞ。
「うちの子、受験に失敗しちゃってさぁ」も政治的発言かもしれん。教育行政の不備を訴える発言の婉曲な表現でないとはいえぬではないか。
つまり、ある発言が「政治的か、そうでないか」を決めることは、非常に難しいとわかる。もっとぶっちゃけ言うと、そんなもんは「エライ人の都合で、どうにでもなる」のである。

言論の自由というのは、簡単に言えば
「人間が生まれつき持っている自由であって、憲法典は『あとから紙に書いておいた』だけであって」
「ある発言が『政治的か政治的でないかを決めてはいけない』ということ」
だとわかる。
つまり、もしも政府のエライ人が、ある発言を「政治的だから制限」したら、大根の値段だって子供の受験だって、それはいかんと制限できる。早い話「しゃべるな」ということで、それは人間であるから不可能なのだな。
そして、エライ人が勝手に発言の「良い、悪い」基準を決めちゃったら、言論の自由なんて絵に描いた餅になってしまう。彼に都合が悪いことはいくらでも規制できるようになってしまうから。

つまり。
朝日新聞が「言論の自由」に反したのは、皇族に「政治的なことだからしゃべるな」と言ったこと自体ではないのだな。
そうじゃなくて「政治的かそうでないかを、朝日新聞が自分が勝手に決めちゃった」ことである。日本国憲法に書いてある「言論の自由」って、誰も「政治的発言かそうでないかを決めちゃいかん」ってことなのだ。
朝日新聞は別だ」とは書いてないからね。

つまり、朝日新聞って、ぜーんぜん「言論の自由の意味なんかわかりませーん」と言ったに等しいワケなんであるよ。でなきゃ、あんな馬鹿なことは書かないでしょうからねえ。

やれやれ、なんである(^^;)