Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

無思想の発見

「無思想の発見」養老孟司

この本はすごい本だ。私は「目からウロコ」の連続で、読みながら「そうだったのか!そうだったんじゃぁっ!!」とのたうち回り、読み終わると同時に再読してしまった。
これだ、これだったんだ。

養老氏は、日本人の特質を「無思想」という「思想」をもっていることだと語る。
日本人にとって「思想」の対語は「世間」である。つまり、世間こそすべて、なのだと。

300年間、徳川時代で「ご恩と奉公」でやってきて、突然ある日明治維新。その上、今度は大東亜戦争に負けると教科書炭塗りして「平和憲法」です、と。いったい、どうなっておるのか?

それは、日本人が「無思想」だからだ、養老教授は指摘する。
「思想は思想」で「世間に迷惑をかけない限り」思想は許容される。しかし、思想が世間に介入することを、日本人は嫌うのだと。
「なにをつまらんことをぐちゃぐちゃと」
「言い分はわかるけど、現実は違うだろ」

私は、若い頃から「屁理屈」だと言われてばかりいた。
「なに、理屈に屁があるもんか。理屈がニオったりはせん。屁理屈だというのならば、どこがどのように屁なのか、具体的に説明せよ」とよくやっていたもんだ。
もちろん、相手が「ますます屁理屈野郎だ」と思ったことは言うまでもない。

なんで「屁理屈」なる言葉が登場するのか、ずっと疑問に思っていた。
そうやく謎は解けた。それは、「無思想である」という思想の表明だったのである。「それは世間と違う、思想よりも世間が優先である」という思想の表明だったのである。

思想は意識の産物である。つまり、脳の産物である。
この意識は、しかしそんなにアテになるもものだろうか?
我々は、水を飲もうと思ってコップをとる。ところが、実際は「コップを取りに行く」ほうが早くて、「水を飲もうと思った」のは後なのだそうである。しかし、意識が、この順番を入れ換えて、「水を飲もうと思ったから」だと我々に思わせている。
思想を生み出す意識というものは、そんなものなのだそうである。

養老氏も、子供の頃からヘンな子供だったのだ。

ヘンな子供のまま大人になってしまった人達は、なんでそうなのか、この本を読めばわかるに違いない。

この本は「無思想」な「世間」と、ヘンテコな養老氏の和解の書だ。養老氏は「だから思想が大事だ」とは言っていない。さりとて「世間がアテになる」とも言ってない。
両方とも、そんなにアテになるものじゃないが、我々は感覚の中でしか現実をとらえられず、我々がとらえた現実は意識が解釈していると指摘する。
その現実はとぎれとぎれで(毎日睡眠するから)1年後の我々は、その物質の90%以上が入れ替わっている。

回答は、すべて読者の手にゆだねられる。
本書は「メタ思想」の思想である。

もちろん☆☆☆。とても刺激的だ。面白い。
是非、一読をオススメしたい。