Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

地鎮祭について

私の父は、江戸時代からつづく市内で7代目になる大工の棟梁であった。(もっとも、母と恋愛結婚したとき、父は次男、母は長女であったので、母方の姓を名乗ることになったが)
かなりの腕前で、息子の私が言うのもなんだが優秀な棟梁であった。

その父が、ほとほと困ったことがある。私が中学生だった頃。
ある施主さんの依頼を受けたのはいいが、その施主さんがある新興宗教の熱心な信者で「地鎮祭はしないでくれ」と言ってきたのである。
父は驚いた。「なんと、地鎮祭をしないとは!」
母は、筋金入りの社会党左派であるので(笑)「いいじゃないの、そんなのしなくたって。迷信なんだし」と父を説得しようとした。
父は「うむむ。。。」とうなっていたが、電話で仲間内と相談を始めた。
しばらく話して結論が出て「どうしても地鎮祭をやらにゃならん。」

不服そうな母に、父は説明した。
「もし地鎮祭をせずに、事故でも起きたら、そりゃえらいことになる。地鎮祭をせなんだワシの責任になる。だいたい、地鎮祭をせなんだら、職人は集まらんで。そんな現場はおとろしいわ。」
父は施主さんに電話をかけた。地鎮祭をしないのであれば、この仕事は降りさせてもらう、とまで言った。他の大工に頼め、と。
施主は折れた。地鎮祭は行う、ただし施主は参加しない。費用も出さぬと言うので、父のポケットマネーですることになった。事情を知った神主さんが安くしてくれた。

古くからの職人を率いる大工の棟梁は、地鎮祭をしなくては、彼らを統率できぬのである。それは、父曰く「太子様(聖徳太子)が決められた」ことによる。
建物を建てるときは、その地の神様に、禍が起きぬように、天上の神様に建築の許可を頂いてきたので、鎮まっていて欲しいとお願いをするのである。そのときに、実は現場での序列が決まるのである。
昔、聖徳太子が寺を建立するのに、仏様のアタマの上に上がって作業をする工人が卑しい身分ではいかんということになった。今でも「左官」があるのだが、このときに太子様が「右官」「左官」を決められた。昔は左右では右の方が上位であるので(右大臣、左大臣)「右官」が現場での最上位者となる。つまり、これが「棟梁」である。大工の代表が「内匠頭」(たくみのかみ)で、殿上人(昇殿の資格がある)である。場合によっては陛下の寝殿まで作るわけだから。
建築現場では大工が左官より上というのは、太子様の定めによるので、地鎮祭のおりに棟梁は、太子様のご意向によって指揮権を把握することになっている。父が「地鎮祭をしなくては、職人が集まらぬ」というのは、神様という後ろ盾があってはじめて棟梁なので、そうでなければタダの人であるから、職人達を掌握することはできない、という意味であった。単に、事故を起こさないという迷信儀式と思う人が多いと思うが、それだけではない。

父は仕事熱心な反面、やや狭量なところがあって、いわゆる棟梁らしい親分肌な性格ではなかった。しかし、その父が、現場においては決定権を持つ。誰が責任をとるのか決まっていなければ、組織は動かない。現場には甲論乙駁の議論も多数決の民主主義もない。ただ、棟梁の一言が重い。
現場が終われば、逆に棟梁ではなくなるので、人の手伝いに行っても良いし、カッコをつけないでだらしなく家で飲んだくれていても良い。だいたい、左官さんが意見をしにくるが(笑)現場が終われば、地鎮祭の効果も終わりだからだ。だから、また新しい現場に行けば、また地鎮祭をしなくてはならんのだ。

地鎮祭神道で行われるが、その様式は寺社建立の際にも踏襲されるわけで、庫裏の建築などでも地鎮祭をする。お寺に神主さんが行くのは妙に思われるが、それは明治以降であって、それ以前はごっちゃで当然であった。

ところで、もしこの施主が「公共団体」だったら、政教分離の原則に反するであろうか?
三重地鎮祭判決では、地鎮祭はすでに布教目的がなくて「ただの儀式」だから違憲に当たらぬ、とした。そもそも神道は「布教」をしないのだけどね。

「宗教」と「習慣」を2分する考え方は、我が国の伝統にはそぐわないように私は思う。だからといって、べつだん困りはしない。伝統というのは、それで良いように思うのだ。