Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

遥かなる大和

「遥かなる大和」八木荘司

舞台は7世紀である。
遣隋使、小野妹子が登場し、留学生を連れて行く。
小野妹子は、2度目の遣隋であるが、1度目に大失敗をしている。
かの有名な聖徳太子の国書「日出る処の天子、日没する処の天子に書を致す。恙なきや」
を隋の煬帝にささげたまではよかった。しかし、そのあと、返書を帰路に、高麗で盗まれてしまったのである。
2度目の遣隋で、小野妹子は、返書の内容をしらないのに、煬帝に返事をしなければならない羽目におちいってしまう。
困った妹子は、隋の人脈をたどって国書の内容を探るがわからない。
そんな中で、一緒に随行していた蔵作福利が、突然失踪してしまう。
おまけに、留学生の砂金を持ち逃げしてしまった。
そこで、妹子は、留学生の高向玄理南淵請安に、福利の探索を命じる。
その探索行の中で、二人が目にしたのは、煬帝の圧政にあえぐ人々の姿と、革命の意志を隠そうとしない楊玄感、李密であった。
福利を見つけ出すことができなかった二人は、隋の実情を小野妹子に報告するとともに、楊玄感、李密を紹介。
妹子は、隋は必ず新羅と連合し、高麗と百済、大和を攻めると予測、楊玄感、李密らの革命勢力と協力体制をつくりつつ、高麗、百済と連合する構想を抱いて急ぎ帰国した。
聖徳太子は、この策を支持。
ところが、蘇我馬子新羅派で、新羅から賄賂を受け取り、天皇暗殺までやってのけている。(崇徳天皇)。
妹子ら高麗派は、蘇我馬子新羅派と暗闘をすることになる。
蘇我の力は強く、推古天皇は素直な性格であるがゆえに、蘇我の陰謀を疑うことを知らない。
一方、隋では、ついに隋が崩壊。
ところが、政権を握ったのは、李密ではなく、無名の北方守備についてした将軍、李淵であった。
李淵の二男、李世民が父親をたきつけ、半分脅すようにして蜂起させたのである。
支那史上に残る名将の李世民は、すぐれた政治家でもあり、群雄割拠を統一、唐を建国することになる。
一方、その頃の大和では、ついに蘇我氏の魔手が太子に及ぶ。
太子の夢は、蘇我氏による暗殺で、いったん潰えることになるのだった。。。

実に面白い。
歴史小説であるが、虚実入り混じりながら、思い切り空想を広げた作品である。
しかし、この視点は面白い。
百済は、大和との関係でいえば、常に朝貢していた。百済についていえば、大和を裏切ったことはない。
新羅とは、敵対関係である。新羅は、百済を圧しており、任那も不法占拠していたからである。
そして、支那朝貢し、連合して高句麗(高麗)を併呑し、百済もそうするつもりであった。
大和としては、領土問題を抱えている新羅と国交するわけにはいかないが、朝貢なら認める。
その朝貢を勝手に牛耳っていたのは蘇我氏であり、それが「経済豪族」である蘇我氏の資金源であった、という説だ。
これは、それなりに根拠があり、実際に聖徳太子の臨終の際に、蘇我馬子新羅の医師を伴って見舞いをした、という記録がある。
本書は、これを暗殺と見る。
いくらなんでも、后と太子が1日違いに亡くなるのは変であり、実際には毒を盛られて、体力に勝る太子が1日生き延びた(それゆえ、医師を連れた見舞いと称してとどめを刺しにいった)というい説は面白い。
なお、聖徳太子暗殺説は根強くある。
歴代天皇諡号で「徳」の字がつく人は、みな、暗殺されたか流刑されたか、非業の死を遂げた人ばかりだからである。
崇徳・安徳・顕徳・順徳。
崇徳は保元の乱で敗北、讃岐に流刑。
安徳は壇ノ浦で平家とともに沈む。
顕徳は後鳥羽院であり、承久の乱隠岐の島に配流。子の順徳は佐渡島に配流。
皆、非業の最期なのである。

聖徳太子が定めた官位十二階のうち、「徳」は、もっとも高位である。
それだけ貴重な時なので、非業の最期を遂げた天皇が怨霊にならないように、徳の字のつく諡号を送った。
すると「聖徳」はどうなのか?
しかも、夫人とわずか1日違いの死亡で、かつ、太子の子息は蘇我によって根絶やしにされているのである。
なお、大化の改新で馬子を誅した中臣鎌足であるが、中臣家は物部であり、蘇我を滅ぼして藤原氏の世を作るのである。

評価は☆☆。

古代史の知識がちょっとある人におすすめ。
すごく詳しい人は、、、たぶん、向きません。(笑)
なにしろ、「一人一家」が、歴史の世界なんである。
歴史は、反省するものではなくて、楽しむものである。反省だけなら、サルでもできるぞ(笑)