Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

南京大虐殺のまぼろし

南京大虐殺まぼろし」鈴木明。

ながらく絶版になっていた本書が復刻されたので、これを機会に読んだ。
この本こそ、今もつづく「南京大論争」の発端となった、ある意味で記念碑的な著作である。

南京大虐殺については肯定派・否定派が入り乱れているが、本書を改めて読んでみると、南京大虐殺を「まぼろしだった」と言っているわけではないことに気付く。鈴木氏は、

南京大虐殺において、東京裁判で提出された証拠の証拠能力がたいへん疑わしいこと。特にエドガー・スノーの証言に依存しすぎていること。
・いわゆる百人斬り事件が「南京大虐殺があったのだから百人斬りがあった」という論法が南京の戦犯法廷でくだされている一方で、東京裁判では「百人斬りがあったのだから南京大虐殺があった」という検察主張となっており、相互に循環する論法であったこと

を、関係資料から問題提起したに過ぎない。つまり、まぼろしだと言ったのではなく、裁判における証拠能力に関する疑問の提出である。

その後の南京論争であるが、おそらく、現在のところでは、問題点は
・虐殺行為の規模。つまり、中共が指摘する「30万人説」を全面肯定する意見は肯定派にも少数なのであって、実際の規模はどの程度であったのか?
・ある程度の虐殺行為があったとして、それは国際法違反であったか?つまり「戦闘行為」による死者は単なる「戦死」であり、虐殺とは言わない。便衣兵及び民間人の比率と手続き上(裁判または軍法会議)の適法性。
の2点であろう。

私見だが、南京戦のように一方がゲリラ戦を選択した場合、国際法における違法性は阻却されるか相当程度軽減されるだろうと思う。法哲学の立場から、ちょっと説明すると。
法哲学は、つまるところ「私の問題」を扱うものである。つまり、「国家」が哲学することはないので、常に「私がどう考えるか」の法ルールに沿った一般的な解釈が法哲学というものなのである。
で、現実に戦争が起これば「私」は戦場に行くことになる。
戦場にいけば、私は死にたくないと考える。その考えを敷衍すると、相手も殺されたくはない筈である。だから合理的なルールとして、本来は「私を殺したら、お前を殺すぞ」というものがあるはずだ。
ところが、ここで問題がある。つまり、命は1つしかないので「私が殺されたら」お仕舞いである。相手を殺すことはできない。だから、現実には「私を殺そうとしたら、お前を殺すぞ」しかない。
それで、ハーグ陸戦規定は、軍隊には軍服の着用(または旗などの目印でもよい)を義務づける。つまり、軍服を着ることが「殺す意志がある」表示であり、逆にいえば「殺されてもやむをえない、しかし、私も手向かいしますぞ」という意味になる。
民間人は、軍服を着ていない=殺そうという意志がないわけだから、攻撃してはならない。
ここで、ゲリラというものを考えてみると「軍服を着ない=自分が殺すという意志を表示しないで」「しかし相手を殺す」存在であることになる。
私が相手を殺すのは、私も殺されるかもしれないということを許容する上で成り立つことである。ゲリラは、この意志と許容の関係を崩す。この意志と許容の関係を崩すということは、「殺されるかもしれないので殺す私=軍隊」と「殺されないから、殺さない私=民間」の区別を崩すことになる。
それ故、ゲリラ戦の選択をするならば、それは軍隊と民間の区別を無くすことを表明したことであり、そもそも国際法に基づく戦争という法的な規範の枠外に踏み出すことであるから、違法性は阻却されることになる。

国際法に基づく合法・違法の議論はネット上に散見されるが、それはそれとしても、法哲学を学んだ身としては、これらの議論に「私」という概念が全く欠落しているのが不満であったので、つらつら書いてみたわけである。

評価は☆。
もはや「古典」となった書であって、現在の南京大虐殺に関する論争の発端となったという資料的な価値があると思う。しかし、この本はあくまで論争においては端緒であるというのが、正当な評価だろうと思う。本書を発表した当時の、著者の勇気に敬意を表する。著者は歴史の専門家でなく、フリーライターであった。既に亡くなられている。ご冥福をお祈りしたい。