Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

若き世代に語る日中戦争

「若き世代に語る日中戦争伊藤桂一

御年90才になる戦記作家が、「諸君」でのインタビュー形式で語った連載を一冊にまとめた本である。当時は支那事変であるが、そのうちに戦火が拡大して日華事変と呼び、さらにはとうとう真珠湾攻撃をやって大東亜戦争となった。
つまり、日本側呼称によれば、支那事変も「大東亜戦争」である。このとき、満州事変は含めない。(1933年に停戦協定が成立。1937年に盧溝橋事件)
日中戦争」(または15年戦争)という呼称は、この停戦期間を戦争期間に含めなければ連合軍の戦後処理に支障をきたすので、戦後処理の一環としてそのように呼ぶことに決められたものである。(決めたのはGHQで、キメられたのが日本)

伊藤氏は従軍期間7年で、終戦時点で陸軍伍長だったそうである。まず典型的な下士官の経歴である。

まず最初に従軍慰安婦の話が出る。(当時はこの言葉はない)その慰安所をつくったのは、満州の菱田大佐という人だったという「下情に通じた人物」だったらしい。
憲兵や士官が「さすがにそれは、、、」というと、「君らは、芸者を囲っているからよい。兵士はどうするのだ」とやったらしい。
で、募集すると応募者がわんさと集まったようだ。
日本では、戦後の赤線廃止まで、いわゆる管理売春が罪ではなかった。それゆえ、慰安婦に応募することは、犯罪行為ではないし、犯罪被害者でもない。それが当時の常識だった。
兵士と慰安婦の中には、不思議な交情があったらしい。
つまり、一般の兵隊は赤紙一枚で招集された農村の次男三男が多いわけで、おおかた貧しい境遇だった慰安婦(遊女)と通じるものがあったとしても不思議ではないのだろう。
このあたりの議論だが、今の「セックスワーカー差別」の議論とつながるような気がするな。

さらに、八路軍との奇妙な戦争。
日本兵は、いったい誰を相手に戦っているのか、自分たちでもわからないような有様だったようだ。当時の中国は軍閥が割拠して、ほぼ内戦状態である。
事実、日本軍の目の前で国民党軍と共産党軍が戦いを始めることもあったらしい。国民党軍はアメリカの支援を受けているから、装備が良いが、弱くてすぐ負ける。
八路軍は徹底的なゲリラ戦で日本軍を苦しめた。このとき行った日本軍のゲリラ掃討作戦が、後に非難の対象となる。
*(ちなみに、ハーグ陸戦規定では軍服を着ていなければ兵士とは見なされないので、ゲリラは処刑されても規定違反ではない。今にいたるもこれは変化がないので、正規軍は決してゲリラ戦をしない)
*(日本にとっては、支那事変は天皇の命令で始めたものでないので戦争ではないとう認識だった。国民党も同様に、日本に対して宣戦布告しなかった。このため、ハーグ陸戦規定にいう『戦争』とは当時考えていなかったように思われる。もちろん、戦後はこのような見解は封印された)

南京作戦についてもふれている。南京近郊の雨花台で激戦があり、日本軍は「大隊が中隊になるほど」の損害を受けた。つまり、兵力を3/4失ったことである。普通の軍事常識では30%の被害で「壊滅的打撃」とされる。南京入場時の日本軍は疲労困憊、もうぼろぼろであって、30万人を虐殺するような余裕はなかっただろうと言っている。

戦争指導に対しては、厳しい批判をしている。そもそも「勝てなかったら、どうするつもりだったんだ」ということである。
米英に宣戦布告したところで、勝つ見込みは非常に少なかっただろう。じゃあ、負けたらどうするつもりだったのか?ということである。
そういう連中は、皆逃げてしまった。例外は終戦時に自決した阿南陸相とか大西中将とか宇垣参謀長だけである。

そして、最後に至り、なんで戦友会があるのか?という問いに対して「国民に裏切られて、僕らは孤立しているから」だと答える。

戦争のときは、皆が「ご苦労ですが行ってください」と言って送り出しておいて、ようやくの思いで帰ってきたら「軍国主義の手先」のようなことを言う。
そういう話になっている。「まさか、アメリカがあそこまでやるとは思わなかった」とはいえ、この手のひらを返したような話で「僕らは孤立している」と氏は言うのである。

評価は☆。
従軍生活を長くせざるを得なかった兵隊の真実の声じゃないかと思う。

著者は言う。「先の戦争で、自らの血を流して勝ったのは共産党だけだ」米軍は黒人兵を先頭に立てた。英軍はグルカ兵を先頭に立てた。日本も国民党も自ら戦ったが負けた。
「思想のある軍隊は強い。八路軍は、思想のために死ぬことをおそれていなかった」
そんなものに巻き込まれたことは、実にやっかいなものだと思うのである。