Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

安楽病棟

「安楽病棟」帚木蓬生。

認知症患者を専門に受け入れる病棟が舞台である。
小説の最初に、それぞれの患者が入院することになった来歴が語られる。
必ずしも、患者たちが自分から望んで入院したわけではない。
しかし、家族が看護にあたるのも限界がある。
家族自身が病気になってしまったり、事故にあってしまうケースもある。
そうすると、自宅で認知症の患者を看護するのは無理だ。
そこで、この病院へ入院してくる。

なかには、老齢で身寄りもなく、軽い認知症ということにして入院している人もいる。
病院なら安心だからだ。

小説の中盤では、オランダの安楽死の状況が語られる。オランダといえども、安楽死法が制定されているわけではない。
しかし、政府が安楽死を黙認しているのだ。
そこで安楽死させられるのは、重度の障害児、回復の見込みのない重病人、そして重度の認知症患者である。
医師は、単に治療拒否でなく、場合によっては積極的に患者の命を縮める行為をする。オランダでは、これは殺人罪ではないのである。
しかも、必ずしも家族の同意や本人の事前の同意を必要としない。医師が決めてしまうのである。

小説の後半からは、認知症患者たちが死に見舞われる。
もちろん、老齢であり、完全な健康体の患者などいないわけだから、それ自体は避けがたいこととして受け入れられる。
しかし、主人公の看護婦は気づく。
そこには、明らかに主治医の意図が働いている。
最後に看護婦は言う。彼女は、認知症の患者の看護にやりがいをもって取り組んでいる。しかし、主治医のした行為を完全に拒否できるかどうか、彼女にもわからないのだという。
彼女は警察に主治医の行為を告発するが、主治医は逃げずに自分の主張をしてほしい、考えを世間に問うてほしいと願って、この小説は終わっている。


一読して、ミステリとしてではなく、まさに認知症と看護の問題、そして安楽死の問題を取り上げた一つの小説として、深く考えさせられた。

私の祖母は5年前に亡くなったが、晩年は、やはり認知症であった。
しかし、毎日がおかしいわけではない。
調子が悪い日は母の顔もわからなくなったりするのだが、私がたまに帰省すると、急にしゃんとしたりする。

この小説にいわく、人間の体が80歳、90歳になっても、脳は80歳、90歳までそのまま持つわけではない。
脳は昔のままで、内臓だけが長生きしたりする。
明治時代まで、60歳を生きれば充分だった日本人の脳が、急に80年を耐えられるわけではない。
だから、認知症は避けがたい問題となる。
我々のうち、およそ1/3は、最後には認知症になると思ってよいという。

認知症になるということと、人間性と、そして看護という実際の負担と、それをやる人に報いるということをどのように考えるべきか。
そして、老人医療費が保険料を食いつぶすといわれている実情を、どう考えるべきか。

マスコミも含めて、皆が言わない課題を取り上げた作品である。
評価は☆☆。

私も、最後には認知症になるのかな。
そのとき、子供もいないし、いったいどうなるのか。
私だけでなく、最近増えている独身者の老後は、いったいどのようになるだろうか。

自分としては、最後まで生きたい未練まるだしでぎゃあぎゃあ泣きわめくであろうが、それでも終わりが来るのである。
無様に死にたくはないしなあ、と思うばかりですなあ。。。