Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

信玄の戦争

「信玄の戦争」海上知明

たしか、新田次郎だったか海音寺潮五郎だったかだと思うが「戦国最強武将は、武田信玄上杉謙信」だと論じているのを読んだことがある。「その他の武将は比較にならない、この二人が抜群に強い」という。全く同感である。
しかし、その戦国最強の武田信玄は上洛半ばにして倒れる。では、信玄が天下を取れなかったのは何故か?著者は、その本質を、信玄が信奉した「孫子の兵法」にあるとするのである。

武田信玄の兵が農兵中心であり、活動期が農閑期に限られていたため、織田軍団のように自由に作戦行動が取れなかったという従来の説を、著者は一言のもとに切り捨てる。「いったい、なんの資料を見てそんなことを言うのか。信玄は、農繁期にも頻繁に兵を動かしている」
「積雪のために冬に兵を動かせなかった」と言われる上杉謙信の記録をみても、冬期に戦争して関東で越冬しているような場合もある。これらの説は「俗説」と言われても仕方がないのかもしれない。

圧巻は川中島に対する考察である。「そもそも、上杉武田の両雄は激突を望んでいなかったのであり、第四次川中島は偶然の遭遇戦である」という近年の説に著者は異を唱える。これは、明らかに上杉謙信の策に武田信玄がかかったものである、とする。
女山に布陣した上杉軍に対して、信玄は越後への退却ルートを遮断するように背後の海津城へはいる。ところが、よくよく考えてみると、謙信の本城(春日山城)から海津城までは強行軍すれば2日の行程である。8千の兵を率いた謙信は、春日山城に2万の留守部隊を長尾正景に命じて準備していた。正面の謙信隊を撃破しないと、信玄は甲斐に帰国すらできないのである。しかも、大兵力を北信に貼り付けて籠城しっぱなしでは、信玄の威信は地に落ちる。「啄木鳥の戦法」にかかったのは信玄であり、わざと敵より少数の兵で大将を釣り出した謙信の策にかかったのだという著者の見解は斬新だ。しかも、武田の名のある武将が討ち取られ、越軍は主な武将に損害がないことを見ると、最初から謙信は「信玄撃滅の意図(領土ではなく)」があったという解釈はピタリと合う。大激戦で、武田軍は後半「追撃戦で大勝利」だと宣伝したが、実は一枚の感状もない(このときの領土を与える感状は偽書であると近年判明)。出せなかった、それぐらいやられたのである。謙信は有名な「血染めの感状」を出している。
これはおもしろい。

評価は☆☆。
戦国史が好きな人は必見だろう。やや、謙信贔屓の気味が強いけど(笑)。

著者は、信玄が天下を取れなかった理由を、孫子の「戦わずして勝つ」を上策とする「不戦の思想」が根本にあるといい、その欠点をこう指摘する。「中国の戦略は、時間を無視したものが多い。会稽の恥を雪ぐのに20年。親子2代にわたる謀略なども珍しくない」そして「リスクをとって時間を節約しようとした信長に比べて、信玄は負けないが、成長速度が遅かった。それが天下を取れなかった原因である」

信玄の戦略に「時間」の概念がない、という指摘は痛烈だろう。しかし、何も人間50年は、当時の人に限った話ではない。現代だって、15歳前には元服していた当時に比べて、社会人としてのスタートが遙かに遅いことを考慮にいれれば、同じようなものかもしれないのだ。
といいつつ、一抹の胸の痛みを感じたことは事実である。
まあ、私ごときが急いでみたところで、タカは知れているので、別にどうするわけでもないんだけどね(苦笑)。