Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

成果主義と結果責任論に思う

先日、ウィニーというファイル交換ソフトウェアの開発者に対する有罪判決があった。
法理から言えば、法が裁く対象は「行為」でなくてはいけない。意志は、その行為と一体になって、犯罪となる(構成要件)。つまり「人を殺してやろう」と考えたとしても、実際に着手しなければ無罪である。また、人を殺してしまったとして、それが故意でなければ罪は軽くなる(過失致死)。
ウィニー裁判では、犯罪行為として「プログラム開発」を裁いたことになり、しかも「犯意」の立証が充分だったとは言えない。してみると、やはり疑問の判決であると思う。

気になったのは、その判決で「意図はどうあれ、社会に重大な影響を及ぼした」という「結果責任」を述べたことである。

最近は、企業経営においても「成果主義」が持て囃されている。「結果」主義の大流行である。この考え方に、私は同調できない。

仮に、気象庁が「今年の夏は平年並みでしょう」と予報したとする。しかし、実際には大冷夏となり、農家が大いに被害を受けたとしよう。
ならば「結果責任」を気象庁はとるべきだろうか?農家に損失補填をすべきだろうか?

そうはならない。理由は明白であって、いかなる予測をしようとも、気象庁には「天候を左右する力がないから」である。能力がないところに、責任はない。逆にいえば「好天に恵まれ、大豊作」だったときに、「結果主義」に基づいて気象庁が配当を受け取る権利もないわけである。

「結果主義」の背後には「結果をすべて人間が左右し得る」という「傲慢」がある。

次に、将棋や囲碁の例で考えてみよう。
この場合、自然が相手ではないから、すべて人間がつくった世界である。対局中、棋士の手は「最善手」を求めて盤上をグルグルとさまよう。しかし、いかに両者が最善を尽くしたところで、結局は勝敗がつく。「敗着」と呼ばれる手があるが、それは対戦中ではない(その場合はポカと呼ばれる)。対局後の感想戦において「ここが悪かった、、、ですかねぇ」などといった検討が行われるのである。

「結果主義」とは、つまり「後出しじゃんけん」である。「あとからなら、何でも言える」
もしも「結果が悪い=プロセスが悪い」という単純な方程式を受け入れるならば、そして、その反省を突き詰めれば、必ず「なんでそんな対局をしたのか」ということになるに決まっている。
必勝法は「自分より弱い者と対戦すること」に行き着くのは、すべての勝負事の真理である。宮本武蔵が言ったとおりである。
そして、そういう「自分より弱い者とばかり戦う」ことを「卑怯」と称するのである。

結果ですべてを評価するのは、つまり、勝てること、分かっていること以外はするな、という主張に行き着く。それを臆面もなく主張し、かつ、そういう主張が「正義」の仮面をかぶるのが風潮かもしれない。その正義の仮面をかぶる者が、おのれの「傲慢」や「卑怯」に気がついているとは思えない。単純な「勝者の側に立ちたい」という欲望があるばかりだ。

人が神ではない。神のように傲慢に、結果をもってすべてを語ることをもっと畏れるべきではないか、と思う。かつての信仰心は、愚かな迷信だったかもしれないが「我々はすべてを知り得ない」という謙虚な知恵だけは、今の我々よりもはるかに優れていたと思うのである。