Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

二元外交

米国がいざとなったら日本を見捨てる危険がある、というのは、全くその通りだろうと思う。いや、それじゃ困るんだけど、でも「信じたい」と「信じられる」は別次元の話として了解しておくべき事柄だろうなぁ。

で、それ以前に。
外交といえば「いつでも対話の窓口は開けておく」のが常に正解じゃないか、という話になれば「二元外交」に対する批判そのものが可笑しい、ということになるだろう。
で、「なんで、二元外交はイケナイのか」を考えてみる。

話は、大阪夏の陣の前のことである。
いよい江戸(徳川家)と大阪(豊臣家)の緊張は高まっていくのであるが、豊臣方は「対話によって解決」しようと考えた。そこで、片桐且元が、徳川家康のもとに特使として派遣されたのである。
一方、淀殿は「片桐だけでは心もとない」と考えたのかどうか、自分と懇意の大蔵卿局を、片桐且元の後に使いとして送った。
家康は、これを見て「ニヤリ」と笑った。「阿呆めが」
まず片桐且元に、家康は会おうともしない。代わりに腹心の本多正信から言わせる。「大阪の最近の態度はなんだ、徳川と戦争しようというのか!」というわけである。「しかし」本田いわく、家康が言っているのは「条件を呑めば、和平もあるであろう」その条件とは「秀頼が大阪城を出て、紀州和歌山に転封されること または淀殿を江戸に人質として差し出すこと」いずれかであった。片桐且元は、さっそく大阪に戻り、この条件を呑んでも和平をした方がよいと城中に力説する。淀殿は大変面白くない。
一方、後からやってきた大蔵卿局に会った家康は「なんとなんと。このワシが、かわいい千姫の旦那である秀頼を攻めるようなことがあろうか。無用の心配である、安心せよ」と言う。感激した大蔵卿の局は、涙を流して喜んだ。
大阪城に帰城した大蔵卿の局は、さっそく淀殿に報告する。淀殿は「いや、片桐はそのように言うておらぬが」大蔵卿の局は「なにをおっしゃいます、大御所はそんな方ではございません、片桐が大袈裟に言うておるだけで、ひょっとしたら徳川に点数稼ぎをするつもりではないか」という。
怒った淀殿は片桐を遠ざけてしまい、豊臣を見限った片桐は出奔してしまうのである。
これこそ、すべて大阪方の犯した「二元外交」による混乱が招いたことであった。まるで甲斐のない和平工作のために城中は割れ、対徳川戦の準備は大幅に遅れることになってしまったのである。

この例が何を語るかというと、つまり「二元外交」が忌むべきものであるのは、それが外交交渉として上手とか下手とかいう問題ではなく、二元外交によって国内が割れるからだ、ということなのでありますよ。
そもそも、人間か神ならぬ身、先々の結果を見通して最善の策をとることなんて出来ない相談なのである。それが出来るなら、未来を見通す神であるからなぁ。
そうではなくて、ひょっとしたら次善の策、あるいは三善の策かもしれないが、それでも方針を一つにまとめて交渉する、そのこと自体が解決のための力になるということであります。

で、私がもしも意地悪い外交担当者なら、家康のような策をとって、日本の国論の分裂とか、家族会の方針の分裂を画策するなぁ。

ところで、もしも豊臣方の使者が片桐且元ひとりであったなら、家康は強硬な態度で望めただろうか?そうなると、ただちに「手切れ」となりかねない。大阪方は準備万端整えて、長期戦の備えをするであろう。もしも大阪の陣が長期戦化すれば、豊臣恩顧の大名連中が動揺する可能性がある。そうでなくても、徳川方だって内部で不協和音が出る(今のイラク戦争のように)。
家康も、かなり考えた対応をせざるを得まいよ。歴史は変わったかもしれない。
そうすると、ゆくゆくは、明治維新の形だって変わった可能性がある。なんとも惜しい話じゃないかなぁ。