Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

外交敗戦

「外交敗戦」手嶋龍一。副題は「130億ドルは砂に消えた」。

かつて湾岸戦争終結時に、クウェート政府は感謝国リストを新聞に掲載した。
その中に、130億ドルの巨額な戦費を負担した日本の名前はなかった。屈辱の「外交敗戦」は、いかにして起こったのか?
丹念にその経過を追ったのが本書である。

ご存じのように、日本には平和憲法があって、外国に軍隊を派遣することはできない。
自衛隊は「軍隊ではない」ことになっているのだが、しかし、「軍隊ではない」組織を、そもそも戦地に送って良いモノであろうか?
そこで国連協力隊がつくられ、自衛隊の身分のまま、国連協力隊として出るという案がでるが、政治はこれも決断できなかった。
フセインクウェート侵攻に対する国連決議は、直接「国連軍の派遣」ではないのだが、ロシアの合意を得て「あらゆる手段をとる」というものになった。
よって、多国籍軍を派遣することになったのである。単に「国連軍の派遣」決議がない、とは言えないことがわかる。

まったく動きのとれない日本に対して、アメリカは理解を示すポーズをとる。
いわく、日本が軍を派遣できないことは理解している、だから戦費を負担せよ、というわけだ。
日本としては、この提案を呑むのが一番現実的だった。
先進国の中で日本は突出して中東の石油に対する依存率が高い。他国には「いちばん得をするのが日本ではないか」という批判がある。
まさかフセインと取引するわけにはいかず、もちろん「我関せず」では間接的にフセインの他国侵略を肯定することになってしまう。
自衛隊を派遣することもできないので、カネを出すのが現実的な選択であるといえた。

しかし、ここで日本の「縦割り行政」の弊害が出てくる。
外務省サイドは大蔵省に戦費の支出を要請するのだが、大蔵は動かない。
結局、アメリカ側が大蔵と直接交渉することになってしまう。
そして、その支援額は決定されるわけだが、そのときに「為替レート」を決めていないという素人外交をしてしまうのだ。
ドル建てで「130億ドル」とすればよかったのだが、その予算は大蔵ベースで、円建で予算化される。
実行時にドル高になっていると、アメリカ側から見れば「目減り」しているわけだから、その目減り分も出してくれ、ということになる。
ところが、大蔵は「いや、それは話が違う」となる。
二元外交で、かつ素人外交の典型のような話になってしまった。
こうして、日本は「人も出さず、カネも嫌々出しただけで、最後までけちった」ということになってしまったという。

さすが元NHKだけあって、情報量は凄いものがある。なるほどなぁ、と思ってしまった。
評価は☆。

よく言われるのが「普通の国」だとか「一国平和主義」だとか、あるいは「対米従属」という日本外交に対する批判である。
外交は国益追求の場なのであるが、その国益とはいったい何か?ということから、意見が統一できていないので、何をしても批判が出るわけだ。
これは我が国が民主国家である以上、避けられないことであると考える。

私の考えであるが、まず長期的に、日本という国の立て方を考えておかねばならないと思う。そのうえで、外交スタンスを決めるべきである。
我が国は、これから超高齢化社会に突入し、人口ボーナスはなく、新興国の追い上げに対して、貿易立国としては守りきれなくなるのではないか。
すると、長期的には内需も輸出も停滞することになる。
幸い、過去の対外純資産は多いから、そこそこ成功した高齢者家庭のように、派手な遊びはせず、蓄えを切り崩しながら地道に暮らす方向に向かわざるを得ないのではないか。
すると、そういう家庭が、町内会で大声でモノを言うことができるだろうか?
それよりも、たくさん預けてあるカネを、ちゃんと回収して使えるようにしなければならない。
また、成金連中とは喧嘩しないようにしなければならない。相手は勢いがあるが、こちらはリタイヤ組なのだ。
すると、どう見たって、大向こう受けする外交戦など出来るわけがないと思う。
「曖昧な主張しかせず、アメリカの顔色をうかがってばかり」な外交には、それなりの意義があるということである。
そもそも一線で諸外国とやり合うこと自体を諦めるという「敗北思想」だって、方法論としてはアリなのかもしれない。
もちろん、それが唯一の解とは言わない。
ただ、己の力量が不足だと見切ったら、どう処するか?も、考え方の出発点だということである。

我々庶民は、常にそんな決断を下しているはずである。一部の天才ではないので、分相応の振る舞いをする。
世界第二の経済大国の座も支那に譲った。
無能のふりをするのも、処世術である。リアルに無能では仕方がないが、あえてそういう考え方をする人も居ていいのじゃないか、と思うのですねえ。