Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

汚名

「汚名」杉本苑子

本田正純といえば、徳川家康の謀臣本多正信の子であり、たいへんな切れ者として辣腕をふるった人物である。
かの関ヶ原の戦いのとき、家康は父の正信を息子秀忠につけてやり、自分は正純を伴っていた。それくらい、若年から重用されていた。
本書にもある有名な話では、家康は父の正信に対しては、幼少からの交遊があったためか「佐渡よ、ああせい、こうせい」と気楽に命じたが、息子の正純に対しては「上野介どの、ああめされ、こうめされ」と言葉遣いまで変えたという。
たいへんな気の使いようで、それぐらいの実力者であった。

小説では、堀家から宇都宮城下に潜入を命ぜられた主人公の謙作が、本多家の質実剛健、質素で潔癖な家風にふれ、また
本多正純父子の高潔な人柄に感化されていく心の動きを生き生きと描いている。
正純は、その辣腕ゆえに大久保家をはじめとする他の幕閣から疎まれ、ついに「宇都宮城釣り天井事件」で奥州の佐竹藩に預かりの身となって幽閉される。
ここに至って、謙作は気づく。


徳川の天下統一に大いに貢献した本多正純は、豊臣家が滅亡し家康が逝去すると、邪魔な存在になった。
豊臣家に対して用いた数々の策は、幕府の内部でさえ「悪辣」「冷酷」の誹りを受けている。
しかし、主君家康を誹謗するわけにいかない。よって、これらの汚名を着る人間が必要であった。それが本多父子だったのだ、ということである。
本多正純の異常なまでの重用と高名(家康が死んだとき、秀忠に残したものは天下と本多正純とまでうたわれた)は、やがては正純を滅亡させるための策だったのではないか、と。
それを理解しながら、一切の申し開きをせず奥州に向かった本多正純の後を、謙作は主人のもとから脱藩して追うのである。

評価は☆☆。なかなか面白い小説。
本多正純失脚の理由は、いまだに明らかでない。宇都宮釣り天井事件は、当時の江戸っ子のうわさ話の域を出ず、なんの証拠もない。
大久保家や亀姫による誣告が原因とも言われる。

本書を読みながら、私は思うところがあった。
33才の年から14年間奉職し、社員数一桁の会社がマザーズ上場まで至ったのだけど、その間、実は私は社長の懐刀的な存在であった。自慢じゃなくて、実際にそうだったと、今でも思う。
自画自賛になってしまうけど、製品開発から販売策まで、常に社長の期待に応えて働き続けた。

しかし、上場後に、会社は大きな転換点を迎える。上場後の会社は、個人プレイは許されない。
役員会による相互牽制という合議制で物事は進むようになる。社長も年齢を重ね、かつてのようなワンマン経営は影を潜めた。
その結果、業績は下降を始めることになる。
私は、社長を除く役員筆頭であったが、その仕事は議事録に加判するだけのようなものになっていった。
上場準備室をはじめとするスタッフ部門が影響力を強める中、私の存在が疎ましいものとなりつつあることは、自分でも感じていた。
やがて、株価の下落から会社は合併となる。主導したのはもちろんスタッフ部門である。
社長と私は、形ばかりの慰留を受けつつ、実際は退職せざるを得ない立場となった。すでにポストはないのである。
そして、合併前の役員会において、退職金は10分の1にカットすることになり、その支給が株主総会で可決された。
ただし、その支給時期については「業績回復等の課題もあり、経営陣に一任」となった。
もちろん、実際には一銭の支給もない。労働者でない役員の退職金は、法的保護の対象ではないから。
私は、14年間の苦闘の末に、無一文で追い出されたのである。
笑って欲しい、これでも私も「辣腕」と言われたのだ。その結末である。

人生で30代から40代の前半までは、仕事に打ち込む大切な時期であろう。
その時期の決算は、私にとってはゼロではないか、と思うことがある。
なぜそうなったか?
己が有能でありたいと思い、ずいぶんと人の恨みを買うようなこともしたからだと思う。
情け容赦なく会議で自分より年上の社員を追求し、面罵し、人事権もふるった。
こんな結末も、やむを得ないのかと思うこともある。
そういう仕事で、私は疲れてしまった。パニック障害も、そのゆえである。

今は会社のまねごとをしているが、かつてのような強引な手法を取るつもりもない。
そんな甘いことを言っているから、業績もダメなのだが、、、なにか動けない自分が居る。
なんとかせねば、という気迫が湧いてこなくなった。

50才にも満たないのに、こんなことではダメだ、そう反省する毎日なのだ。
実に因果な人生である。