Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

聖と俗

まずは、トラックバック先のnazunaさんの記事を読んでいただきたいのです。私が日頃感じていたことが、すべてこここに尽くされています。
「本当にそうだ」と、私は思うのですね。

生きていくことは苦労です。生まれなければ、こんな苦労はなかった。永遠の生だの、輪廻転生だの、まったくとんでもない。それでも、なぜか、この生にしがみつき、ちょっとでも楽をしようという心もあります。皆、迷妄のもとであるとアタマはわかるが、身体がついてきません。
ホントにやれやれ、という気持ちなのです。
その「ヤレヤレ」がよってたかって生きているのが人間社会でありますので、まあ、お互い様だと思うのですね。どんなにイヤな奴でも、最期は顔を見なくて済むようになっているわけだし(笑)まあ「堪忍」ということもあると思うのですな。

で、余計なことを付言しましょう。

日本の歴史上、もっとも早く「聖と俗」の分離を進めたのが、あの織田信長ですな。彼は比叡山焼き討ちをしたり、石山本願寺を攻めたりしていますが、その動機は「禁教」ではありません。実際に、天台宗一向宗を信じることがいけないと(たとえば、異教徒だから悪の使いだとか)言ったことはないです。僧侶が「俗」の世界に介入することを嫌った。

実は、同じ事を主張したのが、あの北一輝ですね。「国体論及び純正社会主義」は、実は天皇機関説ですが、その主眼は「政治は俗であって、聖の世界には介入しない」ということでありました。北といえば「日本軍国主義の理論的支柱」という紋切り型の理解しかしてない人が多いですがね。

現代で言えば、リバタリアニズムが同じことを主張しています。彼らが国家を最少にせよ(つまり、福祉国家すら否定するわけですが)と言うのは、そもそも政治は俗なので、個人の信条や理念といったものには「一切」介入するな、ということですね。
現代の「屁理屈度」でいえば、リバタリアニズムこそナンバーワンだと思いますが(笑)それにしたって「伝統的理解」ができないわけではない、そういうアプローチもあるかな、と思うわけです。

などと、よしなしごとを書きましたが。
すべては、トラックバック先の記事に尽きています。

こういうのを「蛇足」というのですなぁ。