「尾崎放哉句集」池内紀編。
放哉の自由律は、実はかなりテクニックがある、と思っていました。そのあたりは、この本にも後書きで指摘されています。師の井泉水の指導のためでもあるようです。
勝手な見解を書き飛ばしますと。決して、本気にしてはいけませんよ。
「咳をしても一人」
有名ですが、普通にやりますと
「一人咳をする」
です。
これですと、ちょっと弱い。で、倒置法、体言止めを使います。印象を深める、基本テクニックです。すると
「咳をせし一人」
となります。ううむ、もう一歩、ですよね。なんとなく味わいがでてきてはいますが。
で、一人の所在の無さを強調しようと助詞の「も」をつける。咳だけじゃなく「なにをしても」を含意しよう、ということです。
そこでやっと
「咳をしても一人」
になります。
ま、こんな読み方はふつうはしませんが(苦笑)。
「咳をしても一人」
有名ですが、普通にやりますと
「一人咳をする」
です。
これですと、ちょっと弱い。で、倒置法、体言止めを使います。印象を深める、基本テクニックです。すると
「咳をせし一人」
となります。ううむ、もう一歩、ですよね。なんとなく味わいがでてきてはいますが。
で、一人の所在の無さを強調しようと助詞の「も」をつける。咳だけじゃなく「なにをしても」を含意しよう、ということです。
そこでやっと
「咳をしても一人」
になります。
ま、こんな読み方はふつうはしませんが(苦笑)。
私のみるところ、山頭火の句がなんとなく身体的であるのに比べて、放哉は頭脳的なんです。死を目前にして、いよいよ深くなっていく放哉の句の世界の中で、やっぱり頭脳的なんです。
それは、現代の人の宿痾ではないのか。
一高から東大へ進んだ放哉は、間違いなくインテリであったわけなんですが、一方でそれは「情報化時代」という「情報ばかりが増えて、いっこうに体がついてこない」現代の人の苦悩を先取りしていたとも思えるのです。
それは、現代の人の宿痾ではないのか。
一高から東大へ進んだ放哉は、間違いなくインテリであったわけなんですが、一方でそれは「情報化時代」という「情報ばかりが増えて、いっこうに体がついてこない」現代の人の苦悩を先取りしていたとも思えるのです。
「恋心四十にして穂芒」
「わが顔ぶらさげてあやまりにゆく」
「今夜も星がふるやうな仏さまとねませう」