Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

散るぞ悲しき

「散るぞ悲しき」梯久美子。副題は「硫黄島総指揮官 栗林忠道」。

本書は大宅壮一章を受賞したノンフィクションの名著である。このたび文庫化され、電車内で読みやすくなった。ありがたい。

硫黄島は、大東亜戦争中に、米軍に大出血を強いた激戦地として有名である。日本軍が太平洋に展開した基地は、米軍の空襲と艦砲射撃で無力化され、そこに易々と海兵隊が上陸するのが常であった。
物量を失った日本軍はバンザイ突撃を敢行して玉砕してしまうのが常であったが、上陸当日にはろくな戦力が残っていなかったので、そうせざるを得なかったのである。

しかしながら、硫黄島はそうではなかった。それは、総指揮官の栗林による合理的な戦術と人心掌握のなせるものであると言われている。アメリカでは、栗林は「第二次大戦中、最良の日本軍指揮官」という評価が与えられている。

栗林は、もともと米国に留学経験があり、軍内では「親米派」と見られていたという。そのために、死地である硫黄島に追いやられたという説もあるそうだ。
栗林は、米軍の物量に日本は勝てないと分かっていたが、硫黄島がとられれば、東京が激しい空襲にさらされることを予見し、ここを徹底守備して米軍に出血を強要し、終戦において日本がいくぶんでも有利な条件を得られることを願い、指揮官を拝命した。
現地をくまなく踏査した栗林は、安全な父島ではなく死地の硫黄島に司令部を置き、ここで陣頭指揮をとることを決意する。
栗林が立てた作戦は、全島に坑道を巡らした地下陣地を構築し、水際作戦を諦めて後退守備をし、自殺的攻撃を禁止し、たとえ最後の一兵となってもゲリラ戦を行うという、合理的ではあるが厳しいものであった。
この作戦の実行のため、栗林は率先垂範する。水の乏しい島内で節水を実行するために、自ら1日に犬用食器1杯の水で過ごした。
野菜のとれない島内で、将校用の食事と兵の食事を同じ内容にし、飛行機で届いた野菜は兵に食べさせた。違反するものは処罰を厳正にした。全島民をいち早く非難させ、男ばかりの島で風紀を保ち続けた。
生きて帰れぬ運命を思い、自ら家族に何度も手紙を書き、また兵にも同じく手紙を出すことを勧めている。連絡便の飛行機は、兵達の手紙の束を満載したという。
杖をついて、自ら工事の進捗を見回り、すべての兵が栗林に親近感を持つまでになったという。名将の器というほかはない。

結果、栗林は、5日で落ちると言われた硫黄島を36日に渡って支え続けた。敵の米軍をして感嘆させた。
辞世は以下の通りである。
「国の為重きつとめを果たし得で矢弾尽き果て散るぞ悲しき」
この辞世は、国内で新聞(あの朝日)が発表したとき、最後の句が「口惜し」に改変されていた。
これ自体、まさに悲しき物語である。あえて軍国主義の害毒を言挙げするには及ばぬ。

評価は☆☆☆。日本人として、読んでおくべき書であると思う。

硫黄島は、米軍が火炎放射器で焼き払い、地下塹壕を埋め立て、その上にコンクリとアスファルトを敷いて飛行場をつくった。
だから、島の下には、いまだ1万以上の遺骨が眠るとされている。その上に飛行機が着陸するのだ。

平成6年、この島に降り立った今上天皇陛下は、次のようにお詠みになられた。
「精魂を込め戦ひし人未だ地下に眠りて島は悲しき」

戦後、栗林の遺体を米軍は探したが、自ら階級章をはぎ取っていたので判別できなかったという。
栗林は、本部で自害せず、杖をつきつつ、麾下の兵とともに米軍へ向かっていったらしい。きっと陛下の御製のごとく、いまだ島の地下で眠っているに相違ない。