橋本知事が「小中学校へのケータイ持ち込み禁止」を打ち出し、賛否両論あるようだ。
小学生にケータイはいらない、という意見もあるし、今の時代は物騒だし必需品、という意見もある。
小学生にケータイはいらない、という意見もあるし、今の時代は物騒だし必需品、という意見もある。
今の子供は、授業中に平気でケータイを使うらしい。教師が何を言っても聞かないわけで、だから「いっそ禁止」となるのである。親の言うことも聞かない子供が多い中、教師の言うことなんぞ、なおさら聞かんわけでしょうなあ。学級崩壊、というやつである。
我が姪っ子も中学生であるが、親の方針によりケータイを持たせていない。「欲しけりゃ稼げ」というシンプルな理屈による。もっとも、ケータイ代が高いといって娘に売春させてた養父もいたようで、そうなると考えものである。
だから、子供のケータイに関しては、親だって賛否両論あるだろう。
だから、子供のケータイに関しては、親だって賛否両論あるだろう。
そうなれば話は簡単で「親の皆さん、ご随意に」で良いはずである。
そうはいかないのが、ケータイという奴の着信音は周囲に与える影響が大だからだ。
他人の子供が授業中にケータイいじった挙げ句に落第するのは本人の勝手であって、特に問題ないが、自分の子供の勉強の妨げになるのは困る。当たり前である。
そうはいかないのが、ケータイという奴の着信音は周囲に与える影響が大だからだ。
他人の子供が授業中にケータイいじった挙げ句に落第するのは本人の勝手であって、特に問題ないが、自分の子供の勉強の妨げになるのは困る。当たり前である。
そう考えていくと「ケータイOKのクラス(もしくは学校)」「ケータイ不可のクラス(学校)」をつくって、親の自由で選ばせれば良いことになる。
この論理を考えると、まさに「嫌煙権」そっくり、である。
たばこを吸うのは自由だが、周囲に煙を吸わせるのはやめてくれ。ただし、があるのは「喫煙者同士は、互いの煙は忍ぶべし」である。自分が吸うのは問題ないが、他人に吸われるのはイカン、と言ったら理屈が通らない。
自己に適用する原則は、他者にも等しくあるべし。
たばこを吸うのは自由だが、周囲に煙を吸わせるのはやめてくれ。ただし、があるのは「喫煙者同士は、互いの煙は忍ぶべし」である。自分が吸うのは問題ないが、他人に吸われるのはイカン、と言ったら理屈が通らない。
自己に適用する原則は、他者にも等しくあるべし。
ただし、電車やバスなどの公共の場では、これは禁煙者が優先、という原則は確立している。「吸う権利」と「吸わされない権利」では、拒否する権利のほうが優先すべし、というのが嫌煙権のルールである。
同じ理屈を、ケータイにも適用すると「公共の場ではダメ」なので、学校は公共の場か?となる。たぶん、そうだろう。すると、拒否側に優先権があるのは、それなりに理屈が通っているように見える。しかしながらタバコとケータイでは、生活に根ざした利便性の上で、ケータイのほうが勝っているように見えるから、話がややこしくなるのだろうな。
「学校では禁煙」というのは、誰にも異論がないだろうから。
「学校では禁煙」というのは、誰にも異論がないだろうから。
しかし、ケータイだってタバコだって、それぞれ考え方は異なるわけで。
そういう異なる考え方の人々の首長というのは、なにを言ってもやっても、反対派から批判されることを避けられないわけである。そもそも、考え方が違うのだから。
そういう異なる考え方の人々の首長というのは、なにを言ってもやっても、反対派から批判されることを避けられないわけである。そもそも、考え方が違うのだから。