Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

地下鉄に乗って

「地下鉄に乗って」浅田次郎

この小説は映画になったそうである。例によって、映像作品に今ひとつ食指の動かない私は未見である。
集中を強いられる感じが嫌いなのだ。
本は、寝ころんで読もうと、公園で読もうと、途中で茶を飲もうと自由。トイレの中でもいいわけで、こんな楽なものはない(笑)。
おまけに古本なら100円。やめられませんな。

で、話はというと。
成り上がり者の父親に反発して家を飛び出した主人公、真次は、しがない中年サラリーマン。毎日地下鉄に乗って、行商でホステス連中に衣類を売り歩く。
ある日、ふと気が向いたので、高校の同窓会に参加するが、その高校は名門校で、かつての同級生達とはまるでかみ合わない。
とぼとぼと地下鉄に乗って帰宅しようとしたところに、同じく高校時代の恩師と遭遇。彼と予言的な会話を交わして、地下鉄のホームを出たら、そこはなんと終戦直後の闇市であり、そこで米軍からの横流し物資でたくましく商いをする男と知り合う。
実はそれが、真次の父「アムール」だった。
そうして、真次は、地下鉄に乗るたびに、過去への旅を繰り返すようになる。
父親の苦難の歴史と、兄の自殺の真相が徐々に明らかになってくる。。。

浅田次郎という作家は、演劇の台本のような小説を書く人で、登場人物一人一人が大げさな見得を切るのが特徴である。
その見得で泣かせるという、どっちかといえばなんば花月のような大衆演劇が持ち味である。
あまり文芸的ではないのである。
ただ、それが「地」というのではなくて(地かもしれないけど)意識してやってみせる。そういう露悪的、確信犯的な浪花節ということだ。
同じ確信犯の浪花節でも「一杯のかけそば」系とは違って(笑)作者も読者も意図的なのである。

で、私もわかっているので「またやりやがった」とか思うわけだ(苦笑)
でも「しゃーねーなぁ。くせえ手を使いやがって」「けど、まあ、勘弁しといたるわ」となる。
それが作者の作戦なのだ。百も承知で読者はハマるのである。

評価は☆。

ラストに救いがない、という批判はあろう。
けど、その救いのなさが、作者の「照れ」なのである。これでハッピーエンドじゃあ、そりゃあもう恥ずかしくって。

恥ずかしくないようにだんだん変わっていくと「壬生義士伝」とか「輪違屋糸里」になるんだろうな、と思う。

こういう作品を読むと、作者の進化のさまが伺われて、たいへん面白い。
どんな名手も、いきなり名手ではないのだなあ。苦労して、たぶん酷評もいっぱい食らって、的外れな批判もいっぱい食らって、だんだん磨かれて見事な玉になる。
今だから読み返して、そういう感慨を持つのかもしれない。
浅田次郎にハズレなし。